まぶさび庵とマブサビット

京都大学大学院人間・環境学研究科教授(間哲学) 篠原資明

1 京都学派と空海

 「いかに死するかが実際に解決できなくては、哲学も思想も画餅に過ぎぬと存じ、寝ても醒めてもこれと格闘して居ります。思想の論理としてはもはや解つたつもりなのでございますが、生ける信念としては未だしの感を免れないのです」。晩年の田辺元が、作家、野上弥生子に送った書簡にある言葉を引いた。西田幾多郎とともに、京都学派の哲学を代表する田辺は、晩年、「死の哲学」の完成に向け、苦闘しているところだったのである。ぼくは、西田の立場にも、田辺の立場にもくみするものではない。その理由は、彼らはともに、いやむしろ京都学派のおもだった哲学者はみな、あまりにも無を前提とした思考にとらわれ、しかもそれを東洋的と思いこんでいたことによる。しかし、冒頭に引いた田辺の言葉は、立場の違いを越えて、ぼくの最深部に響いてやまない。

 無を前提とする思考は、どちらかといえば、西洋に根強いことを知ったのは、トマス・アクィナスの哲学を知り、西洋近代の哲学を再展望してからだった。これに対して、東アジアで無と言った場合、それは実在の別名であることも多いから、注意を要する。もちろん、西田以後の京都学派が無という場合には、そんな単純なことではないのだが、その点は措くとしよう。ただ、トマスが無からの創造という場合、それをつかさどるのは、純粋な知性にほかならないこと。この知性としての神は、アリストテレスから受けつがれ、トマスによる改変を経て、近代の哲学に意外なほど深い影響を与えていることを、けっして忘れるべきではない。生物のうち人間だけが死後、最後の審判を経て神のもとへ召されうるのは、実のところ、天使を除けば人間だけが神と知性を共有するからだ。

 これと対極的な思考は、密教、特に空海による密教に見出されよう。空海は、即身成仏を説いた。人間が、生きながらにして仏のような大きな存在に到達しうると説く、その思想は、確かに不遜きわまりないものとも見えかねない。しかし、その論拠は、仏も人も他の存在者もすべて同じ構成要素からなることによる。違いは、粗密の違いでしかないのだから、稠密にテンションを高めるならば、仏に匹敵するものとなりうるというのが、即身成仏の教えだ。この思想が、天台密教に取り入れられ、草木成仏という、わが国特有の思想を生んでいく次第については、末木文美士『平安初期仏教思想の研究』(春秋社、一九九五年)に縷述されている。トマス主義者ダンテの『神曲』描くところの天国に、人間以外の生き物は基本的に登場しないのに対して、天台僧、源信の『往生要集』描くところの極楽には、人間以外の生命体が登場することを、見逃してはなるまい。密教と対比的に語られがちな浄土信仰の元祖、源信にも、このように即身成仏思想が流れ込んでいるのである。

 実は、このようなことどもを考えるようになったのには、空海が三度、夢に現われたことが大きかった。知・行・遊を統括するまぶさび庵を始めたのも、その出会いの意味を思案した結果にほかならない。ぼくが提唱してきた間哲学により、即身成仏を理論化することが、知の側面。空海が仏に匹敵するべくテンションを高める方法として体系化した三密加持を、滝見立てを基本とする三密加持へと簡略化して実践するのが、行の側面。遊の側面については、語ることがありあまるほどある。

2 空滝とマブサビット

滝見立ての図像  三密加持とは、身口意、すなわち、体と言葉と意識を動員する技法だ。真言密教では、入念に体系化されたかたちで伝えられ、教授されてきた。しかし、自分のような怠け者に、そんな面倒くさいことができるわけがない。しかも、空海は、あまりに大きすぎる存在だ。そこで思いついたのが、滝見立てを基本とする三密行である。体で光の滝を受けとめるポーズをし、言葉で「まぶしさの、さびしさに、ふりそそぐ」と念じ、心で、光る滝を思念するわけだ。簡単きわまりないが、やらないよりはまし、というのが、一種言い訳めいた考えとしてある。さらにいえば、空と海の間を象徴するのが空海の名だとすれば、ささやかながら、その間につらなるべく、せめて空と滝の間には参与したいとの思いもあった。空海との出会いを自ら記念して、空滝(くうろう)を名のるのもそのためだ。その記念を滝見立ての図像にもした(図参照)。この図像は、遊の側面にも通じる。小さめの透明シートに印刷して持ち歩き、これという風景に出会うと、このシートをかざして透かし見ては、勝手に打ち興じたりもするからだ。もちろん、あまり人のいないところでやらないと、変人扱いされてしまうだろうが。

 遊の側面として、これまであれこれと披露し、それなりに知られてきたのが、超絶短詩である。これは、ひとつの語句を別の語句と間投詞に分解するだけのもので、史上最短の詩型として、ぼくが考案したものだ。たとえば、「嵐」を「あら  詩」と分解するだけだから、まじめな詩人たちの中には、篠原は詩をバカにしていると、本気で怒っている者もいると聞く。ただ、ぼくとしては、こわばった言葉を、光の滝が打ちくだく、そのときどきの滝しぶきが、超絶短詩と了解している。

マブサビット・コトミ  このところ、また別のまぶさび遊にもこり始めた。滝見立ての図案を生かしたキャラクター作りである。名づけて、マブサビットという。ここでは、芸能人シリーズから、京野ことみの写真を使ったものを挙げておく。マブサビット・コトミという。マブサビットは、芸能人ばかりではないし、人に限ることもない。マブサビット・ナマズもいるくらいだ。こんなことを思いついたきっかけは、ずいぶん前に高野山に詣ったとき、恐ろしいはずの不動明王の一像が、不思議にもかわいらしく見えたことにある。そのとき、昔の人にとって、小さめの仏像は、ひょっとして、いまでいうキャラクター・グッズのようなものではなかったかと思いもしたのだ。

 いかに死するかという、田辺元の激しい問いかけから始めたにしては、マブサビットという自家製キャラクターの話で終わるなど、不真面目すぎるといわれるかもしれない。ただ、ぼくの場合、田辺が最後まで解決できなかった問題も、即身成仏の行というかたちで、ある意味で解決できている。もちろん、間哲学自体は、さらに展開されねばならないだろう。もちろん、それらは、どちらかといえばテンションを高める作業にかかわる。しかし、それ一辺倒というのでは、不十分だろう。思いきって、心をほぐし、弛緩しきることも、基本的なところで必要とされるのだ。緊張と弛緩の振幅の広がりこそが、草木から神仏にいたるまでの成仏を許容しうるからである。そういった中から、さまざまなものと出会い、自然物を含め、これはという存在者を友としつつ、そういった出会いとつながりを広げていくこと。そこにこそ、マンダラという世界があり、個に徹しながらも、個を超えた広がりがあるように思われるのだ。

後記:まぶさび庵については下記のホームページを参照。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/mabusabi/
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