京都大学、その虚像と実像

京都大学大学院文学研究科助教授(キリスト教学) 芦名定道

1.虚像と実像の交差

 京都大学とは何か、どのように変化しどこに向かおうとしているのか。こうした問いに対して的確に答えることは決して容易ではない。というのも、多様性を内包した巨大な(?)複合体である「京都大学」という実在を全体として捉えることは、それなりの分析と、そして何よりも直観力を必要とするからである。したがって、ここでわたくしが述べるのは、わたくし自身の経験を通して見られた京都大学についての幾ばくかの実像の断片、あるいは虚像にすぎない。しかしながら、京都大学について語ることが、結局は虚像と実像の交差する地点からのみ可能であるとするならば、むしろ、「わたくしの経験」という点を前面に出してみるのも、許される一つの選択肢であろう。以下の文章については、こうした趣旨で書かれたものであることをご理解いただきたい。

2.わたくしの見た京都大学 昔、そして今

 わたくしが、京都大学(理学部)に入学したのは、1976年であるから、およそ四半世紀も前のことである。当時の京都大学は、他の諸大学とは異なり、まだ学生運動の余波が残っており、バリケード・ストライキ、大規模な学生集会、クラス討論、総長団交、デモと機動隊との衝突など、現在とはかなり違った雰囲気を漂わせていた(この状況はその後文学部に移ってからもしばらくは同様であり、文学部では年に2回ほどの学生大会後に授業がストで休講になるのが恒例であった)。それから、25年、京都大学は大きく変化した。そして、わたくし自身も、理学部を卒業した後、文学部へ編入学し、大学院へ進学し、こうした10年以上にわたる学生時代を経て、いったんは大阪市立大学に就職が決まり、京大を離れたものの、何の縁か、再び、今度は教師として京大に戻り、現在に至っている-この間文学部でも大学院の重点化が行われ、さらには今や独立行政法人へ移行しようとしている-。したがって、わたくしにとって、京大についての印象は、理学部と文学部、学生と教師という二つの軸によって、構成されているといってよいだろう。

文学部 理学部

3.学生として見た京都大学-理学部と文学部-

 10年以上も学生をやっていたことにより、現在もその気分をどこかに引きずってところがあるものの、そのおかげで、理学部と文学部という二つの学部を体験することができた。転学部というシステムは、その恩恵を受けた者の一人として言えば、少なくともうまく機能するならば-もちろん、いつもうまく機能するとは限らないが-、人生(進路)の選択という点できわめて良い仕組みであり、現在進路に迷っている人に対しては、一考に値すると述べておきたい。

 さて、理学部と文学部であるが、両者は、一般に思われるような理系と文系という区別を超えて、かなりの共通性をもっている。とくに、理学部の基礎論と文学部の思想系とは、物事を考える姿勢において想像以上に様々な点で似ているように思われる-両者ともにオーダードクターが多いというのも類似点の一つであるが-。これは、あくまで個人的な印象であるが、同じ理論系・思想系の専門領域という中で理学部から文学部へ転学部する場合よりも、工学部から理学部理論系への、あるいは経済学部から文学部への転学部の方が、むしろギャップが大きいのではないだろうか。ともかくも、わたくしの場合、比較的容易に、文学部という環境に適応できたことだけは確かである。

 とは言っても、文学部において重視される語学-文学部思想系にとっての語学は、いわば理学部理論系における数学に相当する-をやり直すにはかなり苦労することになった。とくに、わたくしが編入したキリスト教学では、英独仏の近代語に加えて、ギリシャ、ラテン、ヘブライ語という古典語の学習が要求され、教える立場になった今も、いまだ習得の途上といった感じである。また、理学部と文学部は、学部生にかなりの自由(何を学ぶかについての自由)が認められているという点では共通しているものの、学部生と教師との間の距離に関しては、かなりの違いが感じられる。その一因は、学生数の違いにもあるが(文学部思想系の研究室は、理学部の研究室に比べ、基本的に少人数である)、むしろ、これにはカリキュラム上の相違が大きく作用しているように思われる。理学部では、大学院と学部のカリキュラムがはっきり区別されているのに対して、文学部では、大学院科目と学部科目はその大半が共通授業である。たとえば、理学部では、学部の学生実験を直接指導するのは助手であり、わたくしも4回生のゼミ(物理学第二教室の天体核の教員が担当されている、当時はP4とかいっていたような記憶があるが)で教授に会ったのは、後にも先にもゼミ発表会の席で一度だけであり、教授はまさに雲の上の存在であった。また、同じ授業を受けることがほとんどないため(学部生が大学院授業をもぐりで聴講することはあったが)、学部生と大学院生との交流もきわめてまれであったように思う。それに対して文学部思想系では、学部生も大学院生と共に演習に参加し、同じ教授の指導を直接受けることになる。もちろん、どちらのシステムが良いかは意見が分かれるところであり、なんと言っても学問の性格上の相違を無視して議論することには無理があるものの、総体的に言って、卒論などのしばりがなく、学部生がより自由(?)にやれるのは理学部であり、卒論が課せられる分、教授とも親しくなりやすいのは文学部であると言えるのではないだろうか(これは、20年前の理学部の話であり、現状がどうであるかは定かではない)。ただし、京都大学全体としては、大学院重点化を経て、大学院と学部のより明確な区別という方向に進んでおり、同時に学生の自由が様々に制限される傾向にあるように思われる。

4.教師にとっての大学と学生にとっての大学

 同じ京都大学といっても、教師の目からみた大学像と学生の目からみたそれとでは大きな違いがある。大阪市立大学から京都大学にもどってきてまず感じたこと、そして最近ますます感じることは、キャンパスにおける自転車の多さである。キャンパス内に建物が増え-もはや飽和状態-、学生数もやや多くなったとはいえ、キャンパス内での人間と自転車の多さには驚かされる(その一方で、昔の猥雑さは少なくなり、キャンパス全体はこぎれいになった)。よく解釈すれば、京大生もまじめに大学に出てきて授業を受けるようになったと言うべきかも知れないが、こうした背後に学生気質の大きな変化があるように思うのは、わたくしだけだろうか。「まじめ」という言葉の定義の問題もあるが、昔の大学にあまり来ない学生と、現在の大学に毎日(?)来る学生と、どちらがまじめに学問しているかは、一概に言えないことだけは確かである。少なくとも、語学力は下がりこそすれ、上がっていない、というのが教える側の実感である。

 学生から見た大学と教師から見た大学であるが、単純化して言えば、学生にとって大学は授業やサークルを中心とした活動の場として映っているのではないだろうか。その意味で、学生に映る大学は比較的限られた範囲のものであって、人によっては、自分の属する学部と自分が出席したゼミが大学のすべてということなのかもしれない。わたくしの学生時代は先にも述べたように、学生運動の余波が残っており、大学と社会との関わりについても、それなりに批判的に考える機会があった。しかし、今から振り返れば、そのときに見えていたものは、大学の実像のほんの断片にすぎなかった気がする。それに対して、教師になって見えてきたのは、日本の政治的経済的激動の中で揺れ動く大学の姿であり、多くの委員会や会議によって形成される多面的な活動の存在と、それを担っているのが、学生と教師だけでなく、職員の方々(職員にも様々な立場がある)と教職員組合などの諸団体である、という点である。今の自分が京都大学の実像を正確に把握しているとは思わないが、大学が社会の中において複雑に活動する複合的な組織体であることは否定できない。もちろん、こうした大学の姿を捉えることにどんな意味があるかは、議論が分かれるところであり、むしろ学生諸君に考えていただきたい点であるが、「実像を見る」にはそれなりの努力が必要であり、この「見る力」を養う場の一つが大学というところであることは間違いないように思う。

 ともかくも、一教師として京大生に期待したのは、自分の追求したいテーマを発見し、主体的にそれに取り組んでいただきたいということであり、しかも、自分の狭い殻に閉じこもるのではなく、自分を相対化できる柔軟な知性・感性を身につけてほしいということである。こうした点に関して、相談に乗ってくれる教師は、京大には決して少なくないはずであり、一生つきあえる友や師との出会いは、学生にとって貴重な財産と言えるだろう。

5.キリスト教学について少々

 最後に、現在わたくしが所属している文学部キリスト教学専修について、少し紹介してみたい。京大生でも、文学部にキリスト教学という専修が存在していることを知っている人は少ないかも知れない。ミッションスクールならともかくも、国立大学にキリスト教学である。実際、こうした専修が存在するのは全国の国公立大学で京大だけである(宗教学という学科・専攻は少なくないが)。

 京大のキリスト教学は、キリスト教という対象を学問的に分析し理解することをめざしており、ミッションスクールのキリスト教学科や神学部のように、教派的伝統やキリスト教信仰を前提にしない。したがって、学生でキリスト教徒でないものも決して珍しくなく、各自の学問的な関心からキリスト教という対象への取り組みがなされている。学部生の卒論テーマはそれぞれの関心に応じて、驚くほど多岐にわたっているが、研究室の伝統としては、キリスト教古代の思想研究とキリスト教的な宗教哲学が二つの柱となっている。

 学問の詳しい中身については、キリスト教学のホームページを参照いただくことにして、最近の学生の傾向について、若干の指摘を行っておこう。キリスト教学は、他の思想系の多くの専修と同様に、学部、大学院を含めて比較的少人数である。現在、教師二人に対して、学部生3人、大学院生10人であって(他に聴講生や研究生など)、授業も少人数のものが多い。したがって、教師から学部生まで学問を介した人間関係はかなり緊密であり、授業とは別に、様々な研究会や読書会が行われ、自分のテーマを掘り下げて学びたい者には最適の環境であると言えよう(自画自賛か?)。また、大学院に関しては、他の大学出身の者や様々な経歴を経た者が近年多くなり、その分平均年齢が高くなる傾向にある(大学院生や聴講生の中には、60代の方が数名含まれる)。学問的情熱に関しては若々しいが、豊かな人生の経験を経た学生の存在によって、研究室の雰囲気は良い意味で落ち着いていると言えるかも知れない。こうした中から最近感じることは、人生において学びの道は一つではなく、自分にとって相応しい道を選ぶことが大切であるということである。実に、学問するのに遅すぎるということはない。経歴は様々でも、キリスト教の歴史や思想をじっくり学びたい方は大歓迎である。

 以上、わたくしの限られた経験から見られた京都大学の断片的な姿について述べてきたが、これからいかなる京都大学の実像が浮かび上がるかは、読者の判断にお任せしたい。

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