教育・国際性:何でもありの京大に無い物

留学生センター助教授 青谷正妥(あおたにまさやす)♂

 京都大学を語る時必ず出て来る言葉が有る。「自由の学風」である。この自由の学風は様々な教官によって様々に表現されている。
 ・奇才も顔色よきところ(人文科学研究所・三才学林:横山俊夫)
 ・放し飼い(副学長、厚生補導担当:尾池和夫)
 ・アメーバ、商店街(留学生センター:青谷正妥♂)
 横山は「京都大学大同三則」において、「風変わりな」学者の存在価値を説いた。「青谷さんのために書いた」と言われたこともある。  尾池は学内シンポジウムにおいて、「放し飼いの地鶏が一番うまい」と説き、喝采を浴びた。尤も、後に医学部の教授より「放し飼いは病気で死ぬ奴が一番多いが、それも可か」との問題提起が有ったらしい。  放し飼い教官の典型と自認する青谷は、京大アメーバ論(形は無い。食指が好き勝手に伸びる。全体は健康。でも、でも、なにやらわからん。)と京大商店街論(たこ焼き屋の横に宝石・貴金属店とは何ぞや。でも、商売繁盛。)をゲリラ的に展開している。

青谷助教授

 生命科学研究科長の柳田充弘によると、京都大学の自由さとユニークさは度を過ごしており、それゆえ日本中どこを探しても「ミニ京大」は無いのだそうである。これを「凡庸なミニ東大の多さ」と比較してみよ、と誇らしげに語る柳田充弘はかくまで京大に傾倒しているが、実は練馬生まれの東大卒である。その横から「でもミニ京大になりたがっている大学は多いに違いない」と熱く語る白川太郎は医学部教授。

 学問好きが集まって自由に学問をする場という京大のイメージは決して赤本・青本が作り出した虚像ではない。研究者集団としての京大はまさに無敵だ。

 自由の学風の学を「学問の学」と捉える限り、そしてそれが元々の意味であったのだろうが、京大のバイタリティーは世界でも有数であろう。現に青谷が在学しまた教鞭を執ったプリンストン大学、カリフォルニア大学バークレー校、MITなど、アメリカの一流大学と比較しても決して引けを取る物ではない。京都大学の問題は「学問の学」ではなく「学習の学」にある。またそれは「教える事と学ぶ事」と言う意味での「教学の学」でもある。

 スイスにあるIMD(International Institute for Management Development)というビジネススクールは、毎年世界的に有名な国力ランキングというものを発表している。このランキングで日本は総合国力が先進49経済圏の中で30位だ。これ自体もかなり情け無い事だが、大学教育ランキングに到っては最下位である。その理由は非常に簡潔に述べられていて、「講義はでたらめであり、学生は全く勉強しない」したがって「大学教育が国力の増強に全く役立っていない」というものである。筆者の様にアメリカに20年も住み、世界一と言われる大学および大学院教育と先進国の中で最も劣悪と言われる小・中・高の教育を具に観察した人間にとっては、世界に誇る初等・中等教育システムを持ちながら、世界の笑いものとしか言いようの無い大学教育の日本との対照はあまりにも鮮やかである。

 歴史的考証も含めなぜこの様な惨状になったのか、一体我々に何が出来るのか、それらを順次検証してみたい。ところで、「最低の大学教育」は当然教官・学生・事務官、特に教官と学生の連帯責任であり、更に突き詰めるならば主に教官の至らなさの結果であるので、その責任の一端は筆者自身にもあるとの認識は十分に持っている点を、最初に確認しておきたい。

 全てに於いてアメリカが正しいと言う訳では勿論無いが、大学・大学院教育でもアメリカはスーパーパワーである。京大の留学生の大半は第一志望がアメリカであり、奨学金が取れない者や成績が芳しくなかった者が、仕方無く東大・京大を初めとする日本の大学に来ていると言うのが現状である。世界から優秀な学生が大挙して大喜びでやって来る国と、その国に行けない人達が仕方無く渋々やって来る国との間には大きな違いがある。こと教育に関してはアメリカから学べる事は非常に多そうである。そういう意味で、本稿の前半では日米教育事情を比較しながら、京大に於ける教育改革の可能性について論じたい。

 尚、後半では国際性と英語力について筆者の所属する留学生センターや京大全体の現状を交えて御話しする。

 筆者は京都大学の現状を憂うる者の一人であるが、その一義的責任、と言うより殆ど全責任、は現在及び過去の教官にあると考えている。したがって本稿も現在の京都大学生に対する檄と言う性格の物ではない。「学生の皆さん、現在の京大の状況はこうです。それについて僕は例えばこう思っています。皆さんはどうですか。出来る事が有ればやって下さいね」と言うのが、筆者のメッセージのメイントーンのつもりである。

教育の占める位置

 京都大学は研究大学であり、筆者自身も含め教官は研究をする為に教官になる。ここまではプリンストン大学、MIT、スタン フォード大学、カリフォルニア大学バークレー校など筆者の知るアメリカの名門校と京大の間に大きな違いは無い。大学院大学 構想で大学院が重点化され、大学院生の定員が増加の一途を辿っているのも喜ばしい事と考えて良いであろう。スタンフォード 大学やMITでは大学院の定員が学部のそれよりかなり多いが、それが理由で学部教育が劣化したと言う事実は無い。大学院の充 実や研究中心主義と教育の劣化との間に強い相関関係が見られるのは、日本だけである。

 最大の問題は教育に対する意識の違いであろう。アメリカの大学の起源は、地域の旦那衆が良い先生を選び子弟教育の為自 分達で作った学校である。そこには最初から教育が大きな柱として在った。しかもそれは自発的な物だった。しかし、日本国 立大学は国家が法律によって作った物であった上に、最初は民衆には手の届かない物だった。教育の質を問うよりstatus symbol的な役割を果たす最高学府が、最初からそこにあった。

 当然教官も研究者や教育者としての資質よりも、「帝国大学の教官」というstatusが問題になる場合の方が多かったりする訳である。因みに筆者の居る留学生センターは京都大学の中のゴミ溜めである。自分の学部で教官になれなかった人間や、他大学出身で京大に潜り込むにはここぐらいしか無かったという教官がやって来る。大体京大の中で東大も京大も卒業しなかった教官の比率がこれ程高い所が他に有るだろうか。そういう筆者自身、まともな学者であれば当然出身学部の理学部や数理解析研究所等に職を得ている筈である。ところが日本人はそういう事には御構い無しである。「京大の助教授ですか、そんな偉い方だとは存じませんでした」という手の馬鹿の多い事。思わず「僕も存じませんでした」と言ってしまいそうになった事が何度有っただろうか。落ちこぼれ教官の自分は余りの事に嘲笑と高笑が止まらないのである。そして勿論大変恥ずかしい。

 まあ、余談はそれくらいにして、最大の問題は「教育に対する意識」であると筆者は思う。日本の大学教官には、「良い講義をしないといけない、しっかり教えないといけない、それが自分の職務の一部だ」との意識が決定的に欠けている。もちろん「ひどい講義をするのは恥ずかしい」と思う人も少なければ「講義の評価が高いのは自分の能力への高い評価の現われだ」と誇りに思う人もあまり居ない。アメリカでもトップクラスの大学(leading institutions)は明らかに研究中心であり、教官は主に研究で雇われ研究能力に応じて昇進して行く。しかし、彼らは副次的である筈の教育に3割程度の時間とエネルギーを費やすのが普通である。これは教育も教官としての義務の一部であると言う強い認識を持つとともに、学生達は払った授業料に値するだけの良質の教育を受ける権利が有ると、強く信じているからである。自分達が学生の時に、よく準備された分かり易い講義を受けた彼等は、それがnormだと考えている、いや思い込んで居るのである。彼等は自分の先生よりももっと素晴らしい講義をしようと頑張るので、良い講義の拡大再生産がなされて行く。これに比して「自分の先生だってやっていなかった。僕だって講義の準備なんかに時間を取っていられない」という日本の教官。それぞれ良い講義と悪い講義の拡大再生産を行っている日本とアメリカの格差は増す一方である。ハーバードの某学科長は、ノーベル賞級の先生方の中にも例えば一回生の講義を担当するのを名誉な事だと考えている人が居ると言う。「未だ基礎の固まって居ない一回生に教えるのは至難の業であるので、自分の様な講義の上手な教官が選ばれるのだ」と考えるからである。この発言には巨額の授業料を払っている父兄へのリップサービス的側面がかなり有り、学生を大事にする大学との外向きのイメージ作りをしようとの意図も少なからず働いているとも思われる。だが、それらを全部差し引いても、こういう発言が出て来ると言う事実自体が日本の国立大学の学生や教育に対する姿勢との間の大きなギャップの存在を示唆していると言わざるを得ない。

Accountabilityの問題

 日本でも最近良く話題に上るので御存知の方も多いと思うが、アメリカでは各講義の出来を受講者が評価し、その結果は広くキャンパスコミュニティーに知らされる。アメリカ人は日本人の様な恥の文化は持たないので、そういう意味で評価が低いのを気に病む人は比較的少ないが、競争社会である為に自分の優位性を示す事には教官達も非常に熱心である。更に講義の良し悪しが昇進やtenureの獲得に少しは影響するので、プライド以上の興味も生まれて来る。学生による評価は他の如何なる評価と同じく所詮は主観の産物であり、そういう問題は完全には回避し得ないが、その様な理解が十分に為されて居さえすれば、非常に意義深い指標を提供する。京都大学でも学生評価の導入への動きは有るが、現在の様に研究科や教官の自主性に任せるのではなく、全学で制度化する事を検討してはどうか。(みんなでやれば怖くないかどうかは別として。)尚その際には、教官と学生の双方を講義内容評価の妥当性・重要性及び公平な評価態度に関して教育する必要が有るだろう。

 ところで、筆者は赴任時より学生さんに評価を御願いして居るが、アメリカ式の厳しい講義態度と評価姿勢の為か、はたまた短気の為か、評価は概して低い。にも拘らず評価制度の導入を提唱しているのである。その蛮勇や愛すべし、尊ぶべし。合掌。

教官の言い訳

 「講義より研究の方が面白いも~ん」と言うのは、事実かも知れないが言い訳にはならない。筆者は普段から「いい訳」には「(言わない方が)いい訳」と「(本当に)良い訳」が有ると言っている。ここでの「良い訳」は雑用の多さである。  アメリカ人が”That’s no excuse. Everyone is busy.”(「言い訳するな。誰だって忙しいんだよ」)と言う事が有る。しかし、分業の殆ど無い日本の教官達の忙しさは破格である。重要な決定は全て教授会で為され、助教授以上の教官全員が教授会のメンバー、教授に至っては数多くの部局内及び学内委員会のメンバーと言う現行のシステムでは、教授達は学生指導は愚か研究にさえ手が回らない。アメリカでは、教授ではあるが研究や教育よりも事務的事項を中心に研究科の運営を担当するDeanなる人物が存在し、研究科長的ではあるがより強い権限特に事務的決定権を持っている。会議が少なくて済む所以である。個人の研究や各教官の講義その物に直接関わる事項については、アメリカでも合議制であり、academic freedomの問題も絡んで来るので全体会議しか仕方が無いが、事務的詳細まで微に入り細を穿って議論する事は無い。少数の者に権限を与え、彼らの仕事振りへの信任・不信任は選出或いは再選出の際の投票による方が、システムとしてはもっと効率的ではないだろうか。

 アメリカの場合、その大学を良く知っているベテラン教授で高齢で研究力や生産性の落ちて来た者がこの役割を担っている事も有る。彼等は運営の専門屋となり、研究に十分な時間が割けない代償として高給を貰い、自ら進んでDean役を買って出るのである。京大に於ける廃物(失礼!)ならぬ教官資源の有効利用と言う意味でもこのシステムには学ぶべき点が多い。

 ところで、Dean制は運営のexpertを育てる効果以外に、フットワークの軽さと言うメリットも伴う。情報化社会は変化の加速化を意味するが、「変化が日常」の21世紀を生き抜く為には、決定の速さや変わり身の速さ等、軽いフットワークは欠かせない。この制度、案ずるより生むが易しだと思うのだが。

学力軽視?

 兎に角日本の大学教育は劣悪であり、京都大学も例外ではない。学生は勉強面で大学に多くを期待しないし、大学も学生に多くを期待しないという妙な相互理解の上に、日本の大学は成り立っているように見える。しかも企業までがこういう大学の現状に大変な理解を示しており、教養や学力と言う意味で大卒者に多くを期待する事は無い。未だに学力ではなく学歴が重んじられているので、東大や京大は現状維持で十分安泰であり、時節柄教育改革を声高に叫ぶ必要は感じても実際に改革・改善を行うことが必要だと強く感じている教官・学生は多くはない。  例えば、日立製作所では新入社員研修のすぐ後で「東大の人はこちらへ来て下さい」「慶応はこちらです」とやるらしい。入社直後にしてこれである。当然仕事をしない「のらりくらり社員」を非常に沢山抱えて居ると言う話だ。

 留学生もこういう事情は百も承知で、あるマレーシアからの留学生は「京大へ行くのか、勉強は全然出来ないよ。でもまあいいさ、単位をしっかり貯めて兎に角卒業しろ。京大の名前できっと良い会社に入れるから」とのアドバイスを日本留学の先輩から受けたらしい。何とも生々しい発言ではあるが、正に事実をその通りに述べた正直な発言だとも思う。

 学生の面倒見の悪さに業を煮やしたカリフォルニア大学は、今年学生交流協定の破棄を申し入れて来た。読売新聞で報道され、Yahoo!Japanのtop pageでもニュースとして取り上げられていたので、見た人も多いであろうが、カリフォルニア大学は講義の仕方にも交換留学生の扱いにも大きな不満を示した。まともな講義をしない教官とまともに勉強しない学生の居る大学は、常識で考えて問題外だが、国際的にも晴れてそれが問題外だと公式に認定されたのである。大の大人が他人に指摘されるまで解決は愚か、問題の認識すら出来なかった訳であるから、「日本は未だに外圧が無いと変らないのか」と世界中に笑われたのは言うまでも無い。関係者は顔が引き攣った。尤も、京大改革にはかなりの追い風となったので、筆者を含め満面笑みの輩も居るには居たのだが。

 外国の話が出たところで、話題を留学生センターを中心としたキャンパスの国際化に移そう。

国際化体制の不備

 京都大学の学生や教官の7割ほどが自然科学系であり、留学生も理系学生の方が多い。京都大学はバランスの取れた総合大学ではあるが、数の上では圧倒的に理系大学なのである。然るに全学共同利用施設である留学生センターの教官は9名中6名が人文社会系であり、直接講義等を受け持つ教官は8名中6名が人文社会系である。更に、留学生が多いのは農学部や工学部などであるにも拘らず、理系教官の内2名は医学部と理学部(これは筆者)出身、1人居る農学部出身の教官は現在病気で長期療養中である。留学生センターの重要な活動の一つに日本語教育があるが、その専門家は1人も居ない。(注:現在文学部出身の教官がその任にあたっており、筆者の様な素人の指導も含め、八面六臂の活躍である。したがって、留学生の日本語指導に何らかの支障が有る訳ではない。しかし、日本語教育の専門家を置くのが典型的な留学生センターのやり方であり、文化や文学を教えるべき人間が外国語としての日本語を担当させられていると言うのは、どう考えても望ましい姿ではないであろう。)

 こういう体制の整わない状況では、留学生の指導そのものも覚束ないが、最近は日本人学生の留学指導や京都大学全体の国際化、地域との交流、英語教育などにも手を広げようとしているので、今の陣容では全く話にならない。

英語力ゼロ

 英語教育と言えば、風評がどうあれ留学生センターの教官は英語が出来ない。必要性の如何に拘らず、留学生課の事務官も然り。他のスタッフとのコミュニケーションの難しさ以外の理由は筆者には見当たらないのだが、留学生センターにも留学生課にも英語のnative speakerは一人も居ない。掲示を出すにせよ公式文書を英語で書くにせよ、自信を持ってそれが出来る人は居ない筈であり、実際自然科学系の筆者が見てもあまりにも変だと思われる表現が氾濫している。ところで、「自信を持ってそれが出来る人は居ない*筈*」と書いた事に注目して頂きたい。実は「自信を持ってやってはいけないのに何故か自信を持っている」人が日本には山ほど居るのである。これは国民全体があまりにも英語が出来ないために、ちょっとましだと非常に出来るかのような錯覚を周りも本人も持ってしまう為である。筆者は某アメリカ人に「日本は非常にユニークな国だ」と皮肉ではなく本気で感心された事がある。彼が言うには「日本人は国民全体が等しく英語が出来ず、しかも読・書・聴・話の四技能全てが無い。こういう国は今時少ない」そうだ。実際、アメリカの様に文盲が沢山居たりするのは世界標準から見るとそれほど珍しい事ではなく、そういう意味で外国語が出来る人と出来ない人が混在するのが平均的な国家であるし、メキシコ人の様に英語は話せるが読み書きは全く出来ないという人口が多い国も沢山有る。確かに日本はユニークなのだが、日本国内に居ると、そのユニークさに自ら気付く事は少ない。京都大学も同様であって、教官・事務官・学生が等しく英語力ゼロであるために、自分もゼロでも何も感じないという惨状が現状である。

 英語圏に留学する人達が受ける良く知られた試験に、TOEFL(Test of English as a Foreign Language)がある。その国別の結果を見ると、アジアでは日本がモンゴル、タイ、北朝鮮などと最下位を争っている。例えば1997年には日本の平均スコアは見事にアジア最下位であった。草原は在っても英語学習教材などどこにも無いモンゴル、英語教材を買うには水牛一頭くらいの出費が必要なタイ、そして食糧不足で勉強どころではない北朝鮮、こういう国々と日本が同じ様なスコアなのである。受験者の割合が高いからとの言い訳は、それ以上に受験者の多い韓国にぼろ負けの日本には通用しない。まあ、それぐらい国民全体が等しく英語力ゼロの国が日本なのだ。

青谷助教授

 既述の如く留学生センターの陣容は人文社会系に偏っていて、異文化間コミュニケーションを研究材料にしている教官すら居る為か、異文化理解の為の講義であるとか、クラスでディスカッションの練習であるとか、国際化や国際性に話が及ぶと、どうも大上段に振りかぶる人が多い様だが、筆者の見方は至って単純である。国際性・国際化・異文化理解等について研究しようと言うなら、formal educationというか、それなりの専門教育が必要だろうが、国際感覚を身に付けるだけなら英語を学んで実際に交流したり海外に出かけたりするのが良いし、それだけで十分だと思うのだ。少なくとも筆者はそれ以外の事はしなかったので、この程度の国際性で良いなら、講義なんていらないのである。

みんな、英語やってね!ね!!

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