「自由と気骨の学府を再び」

「美留軒の親爺」こと 美留軒店主 上田 浩一

1・京大と美留軒

 美留軒は、明治三十二年に祖父・上田留吉が創業して以来、私で三代目、かれこれ百年以上続いている。京大の吉田キャンパス、かつての三高のすぐ脇にあり、京大とは私の祖父が京都帝国大学の第一期卒業生の頭を刈ってからの長い長い付き合いということになる。
 美留軒は、祖父の頃では高名なマルクス主義者の河上肇博士や哲学者の西田幾多郎博士、東洋学者の内藤湖南博士、その他京大の歴代総長はじめ名高い先生方は愛用してくださった店であり、今でも多くの京大の教授らが訪れる。

美留軒

 そのような高名な先生方の中でも、私が、非常によく覚えているのは祖父が語ってくれた河上博士の話である。博士は、この店に来るとたまたま居合わせた同僚の教授らとも下働きしている小僧とも対等の立場で言葉を交わし、食事の際には給仕の女中さんとも親しく卓を囲んで食事し、誰彼とも平等・対等・親切に対応し、京都帝国大学大学教授という当時非常に高い身分であったにもかかわらず些かも奢るところがなかったという。マルクス主義者であったということも、鑑みても、非常にすばらしい人格家であったと思われる。そのような教授に教えていただけた学生たちはさぞ幸せであったことだろう。
 私自身も昭和12年にこの店に産まれて以来、祖父の跡を継いでこの仕事に就いてから48年目になるが、今に至るまで、多くの京大の先生方や学生たちと付き合ってきた。このたび、せっかくの機会であるので、祖父が私に語ってくれたかつての京大の姿や私が感じた京大や教授・京大生の変化について少し意見を言わせてもらいたいと思う。

2・三高と「自由」

 京大は、名高い三高の「自由」の学風を受け継いだ「自由の学府」という印象が強い。そして、権威や世間に盲従しない「気骨」のある教官や学生が多かった。
これについて、私が大好きなエピソードを一つ紹介したい。
 三高では、軍事教練なるものがあり、これには軍の現役の大佐がこれにあたっていた。そもそも「自由」を愛する三高生にとって、型にはまった軍事教練など苦痛以外のなにものでもない上に、その指導教官たる大佐は非常に横柄かつ理不尽な振る舞いが多かった。そのあまりのひどさに一人の三高生が、その大佐を殴りつけたのである。しかしながら、当時の京大の教授たちは、彼の行動をやむを得ぬこととして深い理解を示し、国や軍部の強大な圧力からその学生をかばい続けた、最終的には彼はついに退学になってしまったが、当時の社会からすれば、まさに前代未聞のことであり、三高生に満ち満ちていた「気骨」と「自由」の精神の発露であったとのだと、私は思うのである。また、彼をかばい続けた教授たちにも、私は尊敬の念を抱かずに入られない。彼らこそ、まさに本当の意味での学者であり、教育者であったと思う。

3・かつての京大

 三高から受け継がれたこの気高い精神は、戦後の京都大学にも引き継がれたと思う。教授たちは三高・京大が長い年月培ってきた精神をよく学生に伝え、学生もそういう教授らを慕い、京大の学風はますます高揚していったとおもう。
 かつての京大のエピソードとして私が覚えているのは、こういう話である。

屏風
↑美留軒に伝わる家宝の屏風
河上肇など著名な学者のサインが集められている

 戦後、天皇陛下が京都大学に行幸されるということがあった。そのときに、著名な映画監督である大島渚が首謀者となって学生を集め、天皇陛下が乗った黒塗りの車が京大構内に入ってきたところを一斉に囲み、先の第二次世界大戦についての大反省会をやらかしたと言うのがある。
 ちょうど、私が中学生くらいのことであったと思うが、まさに京大生のいかなる権威にも屈しない「気骨」の表れである。私が思い描く京大生とは、こういう「骨っぽい」連中のことである。いろいろな意味で有名な学園紛争自体も、社会や世間の評価はともかく、私にとって、あの時代は非常に意義のあるものであった。私自身、あのころほど社会とは何か、自分は何をなすべきなのか、ということについて真剣に深く考え学んだ時期はない。この店の位置からもわかるように、私はあの時代の影響をまともに受ける場所におり、いろいろな意味でおおきな感動を受けたと思う。あの時代を生で感じた世代として、やはり感慨深いものがある。
 しかしながら、あの学園紛争以来、京大が誇るあの気高い精神もほとんど消え去ってしまった。あれ以来、教授らは保身的になり、学生は従順になり、京大はその輝かしい個性を失ってしまった。 

4・今の京大

 はっきりと言わせてもらえば、今の京大は駄目になってしまった。教授たちは研究のために金を欲しがり、国におもねるばかりで、「気骨」を失ってしまった。学生たちはテレビなどのメディアに毒されて、個性を失ってしまった。社会でも家庭でもことなかれ主義が蔓延して、社会全体が既存の体制・仕組みに従順になってしまった。学問が、文部省が決めた競争ルールの上で、せっせとミスをせずに上にあがっていくだけのものになり下がってしまったともいえる。
 人だけではなく、建物も変わってしまった。老朽化した建物を建て替えること自体は、仕方のないことだし、学生が心地よく学問に集中するためには是非とも進めていくべきことである。しかしながら、今のやり方は、あまりに性急過ぎるだろう。もっともっと長い時間をかけて、計画的に、少しずつ改築を進めていけばいいとおもう。学生が静かに学問に集中できる場であるはずの大学が、工事のためにさわがしくなっているというのは、どうかと思うのである。

「河上肇」のサイン ←右端に「河上肇」のサイン
初代・上田留吉の銅像→ 銅像

5・京大生へ向けて

 京大は単なる国にとって便利で有能な優等生の集めて、従順な社会人を作り出すところではないと思っている。上の人間や社会・国に対して従順なだけの、大人しい良い子になってもらいたくないと思う。どんなことでも自分なりに深く考え、自分なりのやり方、思想を磨いていって欲しい。
 たとえば、私のかつての麻雀仲間に、異国の地で民族運動に身を投じて死んだ京大生がいたが、大きなメディアでは彼の行動についてはありきたりの説明とコメントで済まされてしまう。しかし、彼を良く知る私からすれば、そのような説明だけでは全く不十分なのである。メディアは物事の表層しかしめさない、ということをよく理解して欲しい。そして、ありきたりの説明を越えて、一つ一つの問題・事件に対してもっと深く考え、学んで欲しいと思う。
 京大のもつ「自由」と「気骨」の学風、この伝統を再びよみがえらせてもらいたい。学園紛争の時に爆発したあのエネルギーをもう一度見てみたい、感じてみたいと思う。
相手が国だろうが軍だろうがなんであろうと、自分の信じる道を決して曲げず、そのためには死をも辞さない、そういう「骨のある」京大生にお目にかかりたい。

上田 浩一 氏

経歴
昭和十二年四月二十日 京都に生まれる
昭和二十八年 近衛中学校卒業 
昭和三十年頃 美留軒を継ぐ

美留軒
店の名前は創業者の祖父・上田留吉の名に由来する
本店
・京都市左京区吉田二本松町六三
百万遍店(ビリケン)
・京都市左京区吉田泉殿町一-一〇〇

 料金(本店、学生料金)
 カットのみ  ¥1500
 カットえりそり  ¥1700
 カット顔そりまたはシャンプー  ¥2500
 総合調髪  ¥2900
 

美留軒2 美留軒3

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