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京大公論

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教育・国際性:何でもありの京大に無い物 2

留学生センター助教授
青谷正妥(あおたにまさやす)♂

教育の占める位置

 京都大学は研究大学であり、筆者自身も含め教官は研究をする為に教官になる。ここまではプリンストン大学、MIT、スタン フォード大学、カリフォルニア大学バークレー校など筆者の知るアメリカの名門校と京大の間に大きな違いは無い。大学院大学 構想で大学院が重点化され、大学院生の定員が増加の一途を辿っているのも喜ばしい事と考えて良いであろう。スタンフォード 大学やMITでは大学院の定員が学部のそれよりかなり多いが、それが理由で学部教育が劣化したと言う事実は無い。大学院の充 実や研究中心主義と教育の劣化との間に強い相関関係が見られるのは、日本だけである。

 最大の問題は教育に対する意識の違いであろう。アメリカの大学の起源は、地域の旦那衆が良い先生を選び子弟教育の為自 分達で作った学校である。そこには最初から教育が大きな柱として在った。しかもそれは自発的な物だった。しかし、日本国 立大学は国家が法律によって作った物であった上に、最初は民衆には手の届かない物だった。教育の質を問うよりstatus symbol的な役割を果たす最高学府が、最初からそこにあった。

 当然教官も研究者や教育者としての資質よりも、「帝国大学の教官」というstatusが問題になる場合の方が多かったりする訳である。因みに筆者の居る留学生センターは京都大学の中のゴミ溜めである。自分の学部で教官になれなかった人間や、他大学出身で京大に潜り込むにはここぐらいしか無かったという教官がやって来る。大体京大の中で東大も京大も卒業しなかった教官の比率がこれ程高い所が他に有るだろうか。そういう筆者自身、まともな学者であれば当然出身学部の理学部や数理解析研究所等に職を得ている筈である。ところが日本人はそういう事には御構い無しである。「京大の助教授ですか、そんな偉い方だとは存じませんでした」という手の馬鹿の多い事。思わず「僕も存じませんでした」と言ってしまいそうになった事が何度有っただろうか。落ちこぼれ教官の自分は余りの事に嘲笑と高笑が止まらないのである。そして勿論大変恥ずかしい。

 まあ、余談はそれくらいにして、最大の問題は「教育に対する意識」であると筆者は思う。日本の大学教官には、「良い講義をしないといけない、しっかり教えないといけない、それが自分の職務の一部だ」との意識が決定的に欠けている。もちろん「ひどい講義をするのは恥ずかしい」と思う人も少なければ「講義の評価が高いのは自分の能力への高い評価の現われだ」と誇りに思う人もあまり居ない。アメリカでもトップクラスの大学(leading institutions)は明らかに研究中心であり、教官は主に研究で雇われ研究能力に応じて昇進して行く。しかし、彼らは副次的である筈の教育に3割程度の時間とエネルギーを費やすのが普通である。これは教育も教官としての義務の一部であると言う強い認識を持つとともに、学生達は払った授業料に値するだけの良質の教育を受ける権利が有ると、強く信じているからである。自分達が学生の時に、よく準備された分かり易い講義を受けた彼等は、それがnormだと考えている、いや思い込んで居るのである。彼等は自分の先生よりももっと素晴らしい講義をしようと頑張るので、良い講義の拡大再生産がなされて行く。これに比して「自分の先生だってやっていなかった。僕だって講義の準備なんかに時間を取っていられない」という日本の教官。それぞれ良い講義と悪い講義の拡大再生産を行っている日本とアメリカの格差は増す一方である。ハーバードの某学科長は、ノーベル賞級の先生方の中にも例えば一回生の講義を担当するのを名誉な事だと考えている人が居ると言う。「未だ基礎の固まって居ない一回生に教えるのは至難の業であるので、自分の様な講義の上手な教官が選ばれるのだ」と考えるからである。この発言には巨額の授業料を払っている父兄へのリップサービス的側面がかなり有り、学生を大事にする大学との外向きのイメージ作りをしようとの意図も少なからず働いているとも思われる。だが、それらを全部差し引いても、こういう発言が出て来ると言う事実自体が日本の国立大学の学生や教育に対する姿勢との間の大きなギャップの存在を示唆していると言わざるを得ない。

Accountabilityの問題

 日本でも最近良く話題に上るので御存知の方も多いと思うが、アメリカでは各講義の出来を受講者が評価し、その結果は広くキャンパスコミュニティーに知らされる。アメリカ人は日本人の様な恥の文化は持たないので、そういう意味で評価が低いのを気に病む人は比較的少ないが、競争社会である為に自分の優位性を示す事には教官達も非常に熱心である。更に講義の良し悪しが昇進やtenureの獲得に少しは影響するので、プライド以上の興味も生まれて来る。学生による評価は他の如何なる評価と同じく所詮は主観の産物であり、そういう問題は完全には回避し得ないが、その様な理解が十分に為されて居さえすれば、非常に意義深い指標を提供する。京都大学でも学生評価の導入への動きは有るが、現在の様に研究科や教官の自主性に任せるのではなく、全学で制度化する事を検討してはどうか。(みんなでやれば怖くないかどうかは別として。)尚その際には、教官と学生の双方を講義内容評価の妥当性・重要性及び公平な評価態度に関して教育する必要が有るだろう。

 ところで、筆者は赴任時より学生さんに評価を御願いして居るが、アメリカ式の厳しい講義態度と評価姿勢の為か、はたまた短気の為か、評価は概して低い。にも拘らず評価制度の導入を提唱しているのである。その蛮勇や愛すべし、尊ぶべし。合掌。

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