昭和天皇「謝罪」の草稿 宮内府長官が執筆、保管
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2003/06/10(火) 14:12:09
昭和天皇「謝罪」の草稿 宮内府長官が執筆、保管
1948年から宮内府(現宮内庁)長官を務めた故田島道治氏が残した書類から、昭和天皇が自らの戦争責任を認め、国民に謝罪しようとした詔書の草稿とみられる文書が見つかったことが、9日分かった。
文書は田島氏の直筆で、戦争責任について「朕(ちん)ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧(は)ズ」という表現を使っていた。作成の経緯は不明。48年秋ごろの執筆と推定されるが、これまで公表されなかった。
文書を発見した加藤恭子・上智大元講師は「朕で始まる体裁から昭和天皇本人の意向を受けて執筆したとみられ、天皇の率直な気持ちが込められている」と分析している。
加藤元講師が田島氏の評伝執筆の資料を整理した際に文書を発見。田島氏が戦前勤めていた「大日本育英会」の用せん2枚に万年筆で19行、全506字で記されていた。(共同通信)
1948年から宮内府(現宮内庁)長官を務めた故田島道治氏が残した書類から、昭和天皇が自らの戦争責任を認め、国民に謝罪しようとした詔書の草稿とみられる文書が見つかったことが、9日分かった。
文書は田島氏の直筆で、戦争責任について「朕(ちん)ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧(は)ズ」という表現を使っていた。作成の経緯は不明。48年秋ごろの執筆と推定されるが、これまで公表されなかった。
文書を発見した加藤恭子・上智大元講師は「朕で始まる体裁から昭和天皇本人の意向を受けて執筆したとみられ、天皇の率直な気持ちが込められている」と分析している。
加藤元講師が田島氏の評伝執筆の資料を整理した際に文書を発見。田島氏が戦前勤めていた「大日本育英会」の用せん2枚に万年筆で19行、全506字で記されていた。(共同通信)
2. こぴぺ
2003/06/10(火) 15:02:05
終戦の年の9月27日、昭和天皇はマッカーサーに会われて、「戦争の責任は一切私が負う。私の身はどうなってもかまわない。これを使って、国民が飢えないようにしてほしい」と言って、持参の風呂敷を開かれた。それは皇室の財産目録でした。これにはマッカーサーは、「骨の髄から感動した」と述べています。天皇が会見に行かれる時マッカーサーは「出迎えはしませんよ、見送りもしませんよ」と豪語していましたが、お帰りなる時には、抱きかかえるようにして玄関まで送ってきました。
3. こぴぺ
2003/06/10(火) 15:03:04
今一つ忘れてならないことは、全国の御巡幸です。昭和20年10月昭和天皇は、「今自分の為すべきことは、多大の苦労をかけた国民に全国をくまなく歩いて慰め、励まし、復興のために立ち上がる勇気を与えることであると思う。自分の身体のことなど心配いらない、どんなことがあってもやりぬくつもりであるから、計画を立ててほしい」と言われて、占領軍もこれを許可しました。国民は天皇をどう迎えるだろうか、というのが、彼らの関心でもあったでしょうが、予想に反し、国民はいたるところで熱狂的な歓迎をいたしました。当時ですからお宿のないところが、いっぱいありました。列車の中で仮眠されたり、学校の教室に茣蓙をしいておやすみになりました。そこで先ずなされたことは遺族、引揚者、戦災者の慰問でした。満州の開拓団が半数になって戻った、浅間山麓での新しい開拓地へは車が入れない2キロの道を歩いて、三池炭鉱では地下1500メートルを潜っていかれました。そこでは労働組合の委員長は共産党員でしたが、先頭に立って「天皇陛下万歳」を叫んだのです。
御巡幸は昭和21年の2月から29年まで8年間つづき、全行程は三万三千キロ総日数は165日でした。北海道にも行かれました。行かれないところは沖縄だけになりました。そのことが、昭和天皇の最後までのお心残りでありました。
思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを
御巡幸は昭和21年の2月から29年まで8年間つづき、全行程は三万三千キロ総日数は165日でした。北海道にも行かれました。行かれないところは沖縄だけになりました。そのことが、昭和天皇の最後までのお心残りでありました。
思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを
4. >1
2007/07/09(月) 01:26:10
おなにーすれ
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