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「京女の立小便」


自由な学風 2004/09/29(水) 21:07:56
京見物の祖父母をおどろかせたものに、京都の女の人の排泄の異様な姿がある。
「女が立ってしてんだよ」そういった祖母のみたものは、私も知っていた。花売りの
おばさんが、急に路上で塀に背をむけ、膝をまげずに上半身をふかく屈したとき、
はじめなにをするのか、わからなかった。(松田道雄 『花洛』 (岩波新書、1975年))

都でのこの風習を簡潔に言い表した表現を見たように思うのですが、思い出せ
ません。「京女の立小便」のようなストレートな表現ではなく、もっと間接的な表現
だったと思います。間接的な表現なので、「これは京の街中での女の人の立小便の
ことなのだ」と解説されてはじめて分かった記憶があります。

このような風習は半世紀前の農村では普通でした。人目のないところで、脚を半開き
に直立し、膝をまげずに上半身をふかく屈し・・・。農村の田舎だけのことかと思って
いたので、「都でも」というのが新鮮でした。

この「間接的な」表現をご存知の方、教えてください。

自由な学風 2004/10/08(金) 16:16:19
京の立小便と大根

「東海道中膝栗毛」(1802−09年)にこんな話があります:
喜多八と弥次郎は、清水寺に参詣したあと

かくて其日も、はや七ツ頃とおぼしければ、いそぎ三条に宿をとらんと、道をはやめ
行向かふより、
小便擔(せうべんたご)と大根を荷ひたる男 「大こん小便しようしよう
北八 「ハ、、、、。唐茄子が笛をふいた見世ものは見たが、大こんの小便するのは、
ついど見た事がねへ
弥次 「あれがかの、大根と小便と、とつけへ(取替)にするのだろう
こへとり 「おつきな大こんと、小便しよしよ ト よんでゆくこなたより、
おちうげん(中間)らしき、しみたれのおとこがふたり 「コリャコリャ、わしらふたりが、
ここで小便してやろが、その大根三本おくさんかいな
こへとり 「マアこち来て、して見さんせ ト 此所の辻子へふたりをつれてゆく。辻子は
江戸でいふ新道也。弥次郎北八これを見て、どふするのだしらんと、あとよりついてゆき、
立ち止まり見れば
こへとり 「サアやらせんかいな ト 小べんたごおろしなをすと、
一人の男 「アリャわしさきやろわい ト このたごのうちへふたりながら小べんしてしもふと、
こへとりたごをかたげ見て 「もふ是限で出んのかいな
中間 「うちどめに屁が出たから、もふ小便はそれぎりじゃわいな
(以下略。「東海道中膝栗毛(下)」(岩波文庫)より引用)

二人の小便は大根3本分には足りず、やりとりがあって、北八が足してやることに
なります。この話から京都では、街中の路上で野菜と小便が日常的に物々交換
されていたことが分かります。

この小便擔の実物はいまもどこかの博物館などに遺っているのでしょうか。遺って
いたら見たいのですが。

自由な学風 2004/10/18(月) 17:38:04
京の立小便と大根 − 女性の場合

滝沢馬琴は「羇旅漫録」(1802年)で次のように書いています:

京の家々厠の前に小便担桶ありて、女もそれへ小便する故に、富家の女房も小便は
悉く立て居てするなり。但良賤とも紙を用ず。妓女ばかりふところがみをもちて便所へ
ゆくなり。[割註]月々六斎ほどづゝこの小便桶をくみに來るなり。」或は供二三人つれ
たる女、道ばたの小便たごへ立ながら尻の方をむけて小便をするに耻るいろなく笑ふ
人なし。(「日本随筆大成 1」(吉川弘文館、1975年)より引用)

女性も街中で立小便をしていたことが分かります。この街中での男女の立小便は
よそ者には珍しかった。また、前記の松田道雄は次のように書いています

母は京都にきたころこのかわった風習にまごついた話をよくきかせてくれた。聖護院
の家の前に、みごとな大根をつんだ車がきたので、母は一本いくらかとたずねた。
車をひいていた男は、家のなかをのぞきこんでいった。
「しょんべんあるか」 (『花洛』 (岩波新書、1975年)より引用)

小便は農作物とこのように家庭でも物々交換されていました。ここで次のような疑問が
わきます。京都では大便の処理はどうしていたのでしょうか。

自由な学風 2004/11/01(月) 18:55:15
肥(しもごえ)

姿勢がおかしいばかりか、排泄されたものを京都の人が珍重するらしいのが、
東国の人間には奇異だった。( 松田道雄『花洛』 (岩波新書、1975年)より引用)

これは違うのではないか。京都に限らず何処でも、人糞は肥料として利用されました。
これを「下肥(しもごえ)」と言います。それにたいして近年使われている化学肥料は
「金肥(きんぴ、お金で買う肥料)」と言います。江戸では、便所の汲み取りで得られる
下肥と野菜の物々交換システムが、町の住民と近郊農家のあいだでできていました。
だから、パリのような大下水道はなかったけれど、江戸は清潔な町だった。

ただ、糞尿を肥料に使うと、便の中の回虫の卵が生野菜(和食でも、漬物としてたくさん
採る)と一緒に口に入り、回虫が寄生します。このように半世紀前までは、回虫はわれわれ
の「国民病」でした。小学校では時々いっせいに虫くだし(回虫駆除薬)を飲んでいました。
このような事情を小児科医である松田が知らなかった筈はないのですが。

一九や馬琴など東国の人が珍しかったのは、小便と野菜の物々交換ではなく、街中の
立小便そのものだったのではないか。

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