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談話室

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同学会/自治会/学友会/同好会/学生寮について


2005/11/17(木) 00:51:26
同学会・・・全学自治会同学会
自治会・・・A自/農学部自治会
       S自/理学部自治会
       J自/法学部自治会
       P自/教育学部自治会
       T自/工学部自治会
学友会・・・L学友会/文学部学友会
同好会・・・E同好会/経済学部同好会
学生寮・・・吉田寮
       熊野寮
       女子寮
       室町寮
       地塩寮

について語ってみちゃいなよ、ユー達。

全学連 2005/11/17(木) 00:53:27
ってなに?

2005/11/17(木) 01:03:29
全日本学生自治会総連合。
ただし、いまはいくつかに分裂している。
中核、革マル、民青、などなど。
京大でやかましい全学連は中核系全学連。
詳しくはwikipediaなどで熟知すべし。
ちなみに京大の各自治会が全学連に入っているかどうかは知らないので関係者の降臨を待て。

うんこ 2005/11/17(木) 01:05:09
経済学部の自治会は、昔は同好会だけではなく複数存在して互いに争っていたらしい。

2005/11/17(木) 01:08:27
なんで経済学部だけ同好会とかいうしょぼい名前なんですか

>うんこ 2005/11/17(木) 01:10:04
それいつごろの話?

2005/11/17(木) 01:16:57
医学部と薬学部と総人はないの?

経済学部同好会 2005/11/17(木) 01:27:35
経済学部だけしょぼくない?

2005/11/17(木) 01:27:37
自分で作りなさい
というか総人は絶対必要でしょ

院の自治会 2005/11/17(木) 01:30:00
ってないの?
独立研究科だと何もなくてカワイソス

うんこ 2005/11/17(木) 01:37:55
>>うんこ
70年代、竹本問題とかいうのでもめてた頃らすぃ。

うんこ 2005/11/17(木) 01:56:39
>院の自治会
ぐぐったら出てきたよ。
京都大学大学院教育学研究科 院生協議会Web
http://inkyou-edu.hp.infoseek.co.jp/
京都大学経済院生協議会
http://i.econ.kyoto-u.ac.jp/~inkai/

こんなのもみつけますた。
西部講堂ホームページ
http://www.seibukodo.net/index.html

さすがうんこ先輩 2005/11/17(木) 02:06:55
さすがうんこ先輩。

それ間違い 2005/11/17(木) 12:52:17
>うんこ 2005/11/17(木) 01:05:09
>経済学部の自治会は、昔は同好会だけではなく複数存在して互いに争っていたらしい。
極めて短い一時期民青が同好会を僭称したが、誰からも支持されず自然消滅したことがあった。

つーか 2005/11/17(木) 14:10:26
T自ってないだろ?
聞いたことないんだが。

卒業生A 2005/11/17(木) 15:08:51
「同学会」って今もまだ僭称しているひとたちいたんですか?1970年代後半のころ、赤ヘルが「同学会」と言ってましたが、赤ヘルの兄ちゃん・姉ちゃん以外はほとんど誰も「全学自治会」とは思ってなかった。

2005/11/17(木) 16:11:31
民青の方でつか?

↑↑ 2005/11/17(木) 16:48:29
あんたいくつ?

T自 2005/11/17(木) 18:07:25
T自は70年代まで。
80年代にはT自(準):工学部自治会再建準備会だった。
T自崩壊の経緯はその時代の人ではないのでわからない。

↑↑↑↑ 2005/11/17(木) 19:06:23
同学会の基準は満たしてないんじゃなかろうか
各自治会の代表が構成しているだけだと思われ

質問 2005/11/17(木) 19:13:50
危険な自治会はどれですか?

2005/11/17(木) 20:31:57
君の言う危険の定義を述べたまえ

a 2005/11/17(木) 20:49:03
総人は数年前に消滅を確認した。

うんこ 2005/11/17(木) 21:47:19
>それ間違い
第二同学会とかE全学連連絡会議とかJ同学会とかもその類なんですか?

昔のビラにはなんか味がある。

2005/11/17(木) 22:29:43
持ってるならスキャンしてアップしてください(はぁと)

闇の帝王 [E-Mail] 2005/11/17(木) 23:21:45
経済の同好会はノンポリなんだが・・・

2005/11/18(金) 01:09:58
むしろノンセクトラジカル

2005/11/18(金) 01:11:05
ほんとによく見てますね。感心します。

リスト 2005/11/18(金) 02:31:19
L 文学部
 学友会/L学友会/文学部学友会 京都大学文学部学友会
 L団実/L団交実/文学部団交実 文学部団交実行委員会
P 教育学部
 P自/教育学部自治会 京都大学教育学部学生自治会
 せんこはなび P有志せんこはなび
J 法学部
 J自/法学部自治会/法学部学生自治会 京都大学法学部学生自治会
 J有志 教育の帝国主義的再編と斗う法学部学生院生有志
E 経済学部
 同好会/E同好会/経済学部同好会 京都大学経済学部同好会
S 理学部
 S自/理学部自治会/理学部学生自治会 京都大学理学部学生自治会
 S団実/S団交実 理学部団交実行委員会
 S共斗/理学部共斗会議 帝国主義的大学再編粉砕!理学部共斗会議
 S院斗 帝国主義的大学再編と斗う理学部院生有志M 医学部
 M自/医学部自治会/医学部学生自治会 京都大学医学部学生自治会
 M動く会 医学部動く会
φ 薬学部
T 工学部
 T自/工学部自治会 京都大学工学部学生自治会
 T自(準) 工学部自治会再建準備会
A 農学部
 A自/農学部自治会 京都大学農学部学生自治会
 A自A闘 農学部自治会農学部闘争委員会
 A団実/A団交実/農学部団交実 農学部団交実行委員会
C 教養部
 C自/教養部自治会/教養部学生自治会 京都大学教養部学生自治会
 C代大 教養部代議員大会
 C代大実 教養部代議員大会実行委員会
 Cスト実 教養部ストライキ実行委員会
 C斗/C闘/教養部闘争委員会 京都大学教養部闘争委員会
 C行動実/教養部行動実 教養部行動実行委員会
 C共斗/C共闘/教養部共闘会議 京大教養部共闘会議
 C団実/C団交実/教養部団交実 教養部団交実行委員会
Mt/医短 医療技術短期大学部
同学会/全学自治会同学会 京都大学同学会
自連協/自治会連絡協議会 京都大学自治会連絡協議会
京院協/院生協議会 京都大学院生協議会
京大新聞 京都大学新聞

全団実/全学団交実 全学団交実行委員会
全斗委/全闘委/全学闘争委員会 京都大学全学闘争委員会
全共闘/全学共斗/全学共闘/全学共闘会議 5・10弾圧弾劾!全学共闘会議
学生会議/京大学生会議 京都大学学生会議
民闘委/民主化闘争委員会 京大民主化闘争委員会
RFP 吉田寮フレッシュマンプロジェクト
DF実 12月祭実行委員会
撤回実/「在期」を撤回する全学実行委 「在寮期限」を撤回する全学実行委員会

卒業生A 2005/11/18(金) 09:18:39
http://www.longtail.co.jp/yoshida/index.html

↑ずっと上 2005/11/18(金) 09:37:46
http://web01.cpi-media.co.jp/zengakuren/news/news_38.html

↑ずっと上 2005/11/18(金) 10:13:49
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/sengogakuseiundo.htm

2005/11/18(金) 14:40:16
すべての学生自治会は吉田寮の下部組織である

もちろん 2005/11/18(金) 19:19:39
今年ミスコンを認めた全学実の連中もその一味

しつもん 2005/11/19(土) 00:35:21
経済学部のゼミ紹介は同好会が主催だったようですが、
もしかして危険な会だったんですか?

闇の帝王 [E-Mail] 2005/11/19(土) 12:48:18

そんなはずがない。
頭の中で作り上げた虚構にビビリすぎw

2005/11/19(土) 23:07:58
闇の帝王さんは同好会とつながりがある方なんですか?

闇の帝王 [E-Mail] 2005/11/20(日) 00:36:38
知り合いはいるけど、常任委員とかそういう委員とかにはなったことはない。
というか、経済学部生は一応全員同好会のメンバーではなかったっけ?

うんこ 2005/11/20(日) 00:46:04
ガイダンス会場の入り口で右も左もわからないまま金を払った覚えがある。

まつぼ 2005/11/20(日) 01:10:44
法学部自治会は、知人のノンセクトがやっていたが、
最近中核派に乗っ取られたらしい。よくしらないが。

とはいえ民青には関係のない話。

2005/11/20(日) 01:36:13
経済学部同好会は乗っ取られないんですか?

祝NF 2005/11/23(水) 04:32:20
京大学生運動の本流は赤ヘルだよん。
文学部学友会=全学自治会同学会=吉田寮(=経済学部同好会)系が中心。

NF記念にこれを貼っておこう。


京大11月祭のルーツは、戦後の混乱がまだ続く
1947年までさかのぼる。この年の10月下旬に
京都大学創立50周年記念祭として、1週間にわたって
講演会、演劇、映画上映会がくりひろげられた。
また、工学部、理学部、医学部では標本展、実験器具の
公開がされた。学生の祭りというよりは、大学と京都
市民との交流の意味合いに重点をおいた。
 1948年には、京大学生祭という名称になり、さらに
1949年からは、春季、秋季の年2回の文化祭に発展した。
当時のプログラムを見ると、演劇コンクールを中心として
講演会、クラシックコンサートがそれぞれ、3つほど。
写真展示や、美術展示、社会研究の発表がある程度。運動
部の参加は無かった。なんとなく、今の高校生の文化祭の
規模に似ている。

 1951年、京大文化祭の一環として、当時の京都市に
あった「丸物百貨店」で同学会主催で、「原爆展」が開か
れた。朝鮮戦争を身近に感じるなか、市民らに平和を訴え
ようとしたもので、多くの来場者を招いた。
 このころから、京大文化祭は、「高校生文化祭」の位置
から、社会に対して働きかけをしていこうという学生が主
流となり、学生の政治化を危惧する大学当局との間で、衝
突が起こり始めた。

 1954年まで、大学主催の創立記念式典(6月18日)
と、同学会主催の春季文化祭(6月18日〜20日)は日
程重なりつつも、別途で行われていた。
 ところが、この年に、同学会は、より学生の祭典を強調
するため、春季文化祭を合同の「創立記念祭」、秋季文化
祭を、学生が主役の文化祭、名称を「11月祭」と名付け
ることを大学当局に提案。この年に限って、大学当局は提
案を受け入れた。
 11月祭という名称は、東京大学の5月祭を意識したも
ので、規模で見劣りがする京大文化祭を、東大並みの規模
と内容に引き上げたいという願いがあった。東大は、学生
自治会の代表の全学中央委員会が、共産党学生党員グルー
プ(香山、森田実ら)によって、強力にバックアップされ
て5月祭が開催されていた。
 しかし、あくまでも高踏な文化の祭典としたい京大当局
は名称変更に難色を示し、また、実態として「11月祭」
の名称は学生に定着しなかった。ともあれ、この年の秋季
文化祭には、それまで以上に市民や他大学の学生らが参加、
吉田グラウンドでの前夜祭、フォークダンスなどが初めて
企画された。大学当局は、学生が勉学以外に熱中するのを
快く思わず、前夜祭の中止を求めた。同学会はそれでも前
夜祭を強行し、結果として、大成功に終わった。けれども
同学会の文化祭を盛り上げていこうという姿勢は、後に大
騒動になる。

 

祝NF2 2005/11/23(水) 04:33:14
1955年の創立記念祭(春季)に対して、大学当局
すなわち滝川幸辰総長は「厳粛に、大学関係者だけで行う
ように」と指示した。同学会は、創立記念祭を前年の秋
季文化祭同様に開放的なお祭りとして位置づけ、フォーク
ダンス・前夜祭を行おうと主張。大学は前夜祭を含む、
野外集会のすべての中止を求めた。6月3日に滝川幸辰総
長と同学会の会見が行われ、この際に、トラブルが生じ、
学生に暴行を受けたとした滝川総長が警官隊を時計台に導
入し、2名の学生が逮捕され、起訴され。そして、全学自
治会同学会は、解散命令をうけた。これが京大記念祭事件
とよばれるものだ。また、第二滝川事件ともいう。戦前に
おいては滝川は被害者だったが、今回は加害者になったの
である。起訴された学生は実刑判決を受けたが、それは吉
田寮に住んでいた歴史学者・松浦令さんである。吉田寮
自治会は、松浦令さんの退学後も、松浦さんを寮生として
あつかい、居住を庇護したが、大学当局は、入寮募集停止
を恫喝材料として松浦さん退寮を指示した。吉田寮自治会
はやむなく、松浦さんを退寮決定したが、入退寮権利をめぐる
この争いは、1969年の京大闘争の火種となったのは皮
肉である。松浦令さんは立命館大学卒業後、「新撰組」な
どの江戸・明治期の歴史研究者となった。

 滝川幸辰総長は、大学新聞のインタビューに次のように
答えている。
「私はなぜ(文化祭で)『歌と踊り』をやらなければなら
ないのか理解できない。少なくとも歌と踊りは学生にとっ
て第一義ではないはずだ。やらなければならないものが、
他にもっとあるはずだ」
 
 背景には、日本共産党のこのころの学生運動論「歌って
踊る運動」に京大グループが則っていたからであった(所管派)。
一方、東大の共産党学生グループは、「反戦学連」の流れ
を汲む国際派であり、砂川反戦運動など硬派な動きをして
いた。しかし、それでも、軟派な京大の文化祭は弾圧された。1956年、創立記念祭(春季文化祭)は当然中止。
 ようやく復活したのは、京大同学会が再建された
1959年である。北小路敏らである。同学会が復活した
ことで、文化祭も「11月祭」の名称で復活した。この
年が正式な「第1回 11月祭」である。主催はもちろ
ん同学会である。
 1960年は、安保闘争直後にもかかわらず盛り上が
りを見せ、新機軸として応援団による「前夜祭」が開か
れることになった。

 1959年に「11月祭」として正式に発足しても、
政治的思想的対立で、見解を異にする団体同士の対立は
長年続く。
 まず時代は進み、1970年、第12回11月祭で、
原理研究会(統一教会)が、全学実行委員会にも大学当
局にも無断で、11月祭の期間中に警官隊を導入し、原
理研究会を追及する学生らをシャットアウトした。そも
そも11月祭の参加には「思想信条の如何が問われない」
のが大原則となっていて、それまでも、1960年代か
ら原理研究会も11月祭に参加していた。しかしながら
警察の導入は「大学の学生自治」を著しく侵し、大学当
局との長い間の信頼関係に基づく「11月祭での自由な
学生活動」を脅かすものとして、この年、同学会参加の
「11月祭全学実行委員会」で、「原理研究会の11月
祭からの追放」決議が決定した。その後は、原理研究会
からの真摯な自己批判がなされぬ限り、原理研究会とそ
れに関係する団体の11月祭への参加は認められないこ
とになった。同決議内容は、2004年にいたるも、毎
年、全学実行委員会で決議され、11月祭パンフレット
に掲載されている。

 

祝NF3 2005/11/23(水) 04:35:22
また、1972年からは、現在の同学会系と、この年
に罷免された民青同盟系の旧同学会系が、1974年ま
で並立することになった。すると11月祭はどちらが主
催するかで、争いが続くことになった。結局、民青系が
「同学会」の名称使用をやめ、「文化サークル連合」の
名称で全学実行委員会に参加、現在の同学会がそのまま
参加することに決着した。
 以降、全学実行委員会は同学会傘下の部局ではなく、各学
部自治会による「中間実行委員会」、全学自治会同学会、
文化サークル連合、の上位に位置する連合体とし、全会
一致の原則で大学当局との期間中の休学措置、教室使用
権限、衛生管理、11月祭への補助金などを決定する場
となった。それは、上記のさまざまな学生間の軋轢の結
果、生まれた京大の知恵であった。毎年、全学実行委員
会は結成され、そして解散し、そのことで、特定のセク
トの掌握(早稲田大学...)を許さない体制を築き上
げた。ただし、全学実行委員会から委任を受けて業務を
担当する部局として「11月祭事務局」が結成され、
そういった経緯から、この部局は「独立と不偏不党」を
担うことになっている。たびたび、その後も、参加団体
間での論争・トラブルがあったとしても、事態を解決す
るために仲裁を行っている。

 1978年には、日本共産党系の自治会が「11月祭
パンフレットの表紙の図柄が退廃的で非民主的だ」と
11月祭事務局を非難した。件の表紙とは、米倉斉加年
さんのグラフイックのコピー的な、海と叫びの図柄だっ
たが、同学会文化部は、共産党系に対し、反論を行い、
この年の11月祭を大成功に終えている。
(第3弾)
 レレレのレ。せっかくだから、同じ内容を
京大のアフォkyoto-u.comにポストしておきます。


 また、1982年には、小泉今日子のフリーコンサー
トが、吉田グラウンドで開催されることになったが、
主催者の予想を上回る観客の来場で、パニックになり、
中止となった。中止に怒ったファンが、ステージなどを
占拠する事態が発生した。もちろん、その後は、コン
サートの本質安全な開催に留意がされることになった。

 同年には、11月祭テーマが、問題となった。テー
マは、以前は全学実行委員会にて決定されていたが、
参加団体間の合意がとれにくくなったため、1982
年からテーマが、公募・投票の仕組みに変わった。
 すると、初めての公募で、投票数の1位に「もうほ
とんど病気」がなった。投票結果に全学実行委
員会では、テーマ内容が「癲癇や、障害者などを差別
する意識を増徴する」として問題視。一方で、多数決
の決定の尊重とで大いに議論となったが、結局、全学
実行委員会の全会一致で、次点の「草の根も 花が咲
いたら ひざまづき ヒロヒト拝んで むせび泣く 
人は昔にゃ戻れない ピーピーヒャララピーヒャララ」
になった。
 また、1985年には、吉田寮の廃寮問題のさなか
吉田寮生が組織票をつかって「すべての表現はすでに
暴力である <在寮期限>と<新寮>の<ミシン>の
上での偶然の出会い」という、ロートレアモンのマル
ドロールの歌のパロディで勝負をかけ、途中まで投票
の圧倒的な首位を走っていたが、最終日に別な組織票
が働き、「もうすぐきっと冬になる 騒ぐのだったら
今のうち」が二票差で、この年のテーマになった。

 

祝NF4 2005/11/23(水) 04:36:03
1989年には、11月祭事務局の西部BOXが火
災に遭うという事態になったが、同じ西部構内の映画
部のBOXが、11月祭事務局のBOXとして活用さ
れるようになり、今の体制がつづいた。

 そして、2004年は.....。ありがたいのですが、最近はあまり観察していないもので
90年代以降は詳細はきついですが、イベントの記録なら
書けます。そうとう、記憶が飛んでいますが。

 京大11月祭の面白企画とトラブル事例

学生自治によって自主的・創造的空間(同学会の学園活動
のスローガン)が保障されるからこそ、京大ならではの企
画が行われてきた。

 1969年代には、バリケード祭(バリ祭)が教養部で
行われた。翌年に予定されていた万博は、祭(まつり)が
政(まつりごと)から切り離され、70年代安保という重
要な政治課題から大衆の関心をそらす作用があるのは必然
であり、作家たちは自分たちの芸術表現手段が成り立つ、
空間の政治的機能すなわち国家イデオロギー装置から無関
心ではならない、という主張をもって「反万博(ハンパク)」
の活動が展開された。加藤好弘が展開する裸体のハプニン
グ集団「ゼロ次元商会」は、セックスや裸体の反体制性、
身体的表現の異化作用(ホルンスト・ブロッホ)ともいう
べきキッチェで、無秩序な集団性を街頭で表現した(「美
術手帳」より)。1969年6月8日〜11日に、教養部
で、黒ヘルメットとマスクをした裸体のメンバーによるハ
プニングが正門前で展開された。

 1975年には、デビューしてまもないタモリが、筒井
康隆のリードのもとで、イグアナ芸、多国籍麻雀を初めて
大学で披瀝したのも京大であった。

 1978年は、三里塚空港開港阻止闘争におびえた政府
−文部省が、3.7規定、4.20通達(大学の秩序を守
り、施設の管理をすすめる新しい大学管理規則)を発信し
学生の大学での活動を圧殺せんとする動きが、全国に進め
られたが、逆に、京大同学会は、同志社大学学友会や、東
大文学部学友会と共同で、実質化阻止の全国闘争を戦った。
 その象徴が、同志社EVE祭と共同で行われた「流乱」
のイベントで、西部講堂から今出川通りを経て、同志社キ
ャンパスまでを解放(開放)しようという、大規模なハプ
ニングが遂行された。同年、11月祭事務局から、11月
祭準備のための準備あるいは、練習の教室使用、夜間構内
立ち入りが大学当局から厳しくなったという訴えをうけ、
同学会は「祭りの圧殺」は、すなわち「政の圧殺」に他な
らないと、学部長団交で「3.7規定」「4.20通達」実質化
阻止を勝ち取ってゆく。土木総合館の利用規定は学生に厳
しいものであったが、その門戸を開いてゆった。

 1979年、経済学部文化部のガラパゴスプロダクション
が画期的な企画として、「アンドロギュノスの饗宴」と銘
打ってゲイの東郷健氏(ザ・ゲイ編集長)、伊藤文学氏
(薔薇族の編集長)を講演に招き、大いに注目された。
カミングアウトという言葉が、定着する数世代前のこと
である。東郷健は雑民党から選挙に立候補し、選挙公報
に「オカマ、パンパン、妾、ホステス、サド、マゾ、レ
ズと差別され区別されているあなたへ送る愛の詩。
  もしもあなたが異常者と呼ばれ
  変態扱いされるのなら
  私は言おうあのロッキードの黒幕達に
  平気で嘘を言っている
  お前たちこそ異常だと
 さあズボンのチャックをひきずり下ろせ。
 戦争にまつわる資本家共に向かって
 君の銃口を立てて発射せよ(以下、略)
 1977年7月10日執行 参議院(東京選出)」と
アピールしていた。

 1980年は、11月祭ではないが、西部講堂でウドー
事務所の企画で「ポリス」が公演するが、定員をはるかに
上回る3千人を入れる商業主義に反発して、公演の中止を
めぐり騒動があった。それまでも、F.ザッパ、ストラン
グラーズ、XTCなどを受け入れてきたが、そういった商
業主義と、学生の自由な表現の場のあり方に齟齬が発生し、
その後、新生「西部講堂連絡協議会」が発足した。こうい
った考えは、当然、11月祭にも影響を与えてゆく。

 

祝NF5 2005/11/23(水) 04:36:49
1981年は、本部構内、北部構内で夜間入構内規制
(ロックアウト)が大学当局によって、学生の知らない
間に敢行されたが、教養部管理強化粉砕行動委員会により
実質化を阻止された。入構規制が実施されると、夜間の
学生・研究者の諸活動が著しく制約をうけるからだ。も
ちろんサークル活動、学園祭への影響は甚だしい。
 なお、この年のトピックスとしては、

 なお、この年、関根洋子が11月祭で「異色女優作家
のおしゃべり」として、講演を行う予定であったが、映
画監督の高橋との逃避行で、中止というハプニングがあ
った。
 1982年は、前年度より原理研究会の構内での活動
が活発となってきた。特に、11月祭全学実行委員会の
「原理研究会追放決議」のたて看板が、原理研究会メン
バーに」よって破壊されるという事態が生じ、翌年から
の決議で「たて看板の破壊」に言及する決議にバージョ
ンアップした。
 この年の、小泉今日子のフリーコンサートの中止は、
すでに紹介すみだが、詳細は、次のとおり。
 主催は「アイドル研究会」で、まず、土木総合館で
有料でコンサートを行い、それは、成功裏に終わった。
つづいて吉田グラウンドに移動し、16時からフリー
コンサートが催されることになったが、開始2時間前
には1万人を超えるファンが殺到し、人波がゆれだし
女性の叫び声が聞こえるようになった。そこで、お祭
り広場単位実行委員会は、14時半に「奇相変装大集
合」の段階で、ステージをストップ。アイドル研究会
と協議し、フリーコンサートの中止を決定した。しか
し、怒ったファンがステージに上がり、マイク、PA
バックスクリーン等を破壊した。当初、アイドル研究
会は、11月祭事務局に80人の警備員を出すといっ
たが、警備員の実態はファンクラブのメンバーで、中
には女性の高校生も含まれていた。一歩間違うとロー
リングストーンズが、死者をだしたコンサート(オル
タモントの悲劇)を連想させる事態であった。アイド
ル研究会は、バーニングプロとファンクラブによる、
名前だけの団体で、新人の大学祭のプロモーションの
ため、このコンサートのためだけに作られていた団体
で、実績がある大学公認団体ではなかった。その反省
にたって、その後のステージ企画の運営がされるよう
になった。
 なお、東大駒場祭でも同様の「アイドル研究会」が
女性のコンテストを敢行しようとしたところ、それに
反対する学生と衝突し、コンテストは中止になってい
る。
 他方、この年は、アメフトのギャングスターズが
11月21日に関学を粉砕し初めて甲子園ボールに
出場できることになった。そのため、11月祭中日
の21日は、在学生の多くが長居競技場にいってし
まった。また、学部企画では当事禁止されていた
どぶろく作り(密造酒)の前田俊作氏、天皇へパチ
ンコを投げた奥崎健三氏、現象学から物象化論を展
開しはじめた広松渉の企画が目を引いた。
 
 1983年は、原理研究会が「NF実行委員会によ
る言論弾圧」とするビラを大量にまき、11月祭参加
を狙ったが、2年前の原理研究会との公開討論会から
の逃亡の前例から、ヨリ非難があがった。原理研究会
はこの年の「レーガン来日歓迎」で、京大会館で集会
を11月に開催し、学内浸透を図ったのである。
 この年は、ニューアカデミズムの爆発した年で、
経済学部同好会による糸井重里と浅田彰、中沢新一の
講演会では、法経1番教室が1000人の満員となっ
た。それだけでなく、ゴダールの上映会、複雑系経済
学の塩沢由典の講演など時代を象徴する内容だった。
一方、予備校講師の表三郎も人気を博した。対して、
京大新聞は、森毅、粉川哲夫、池田浩士、伊藤公雄
好村富士彦で数を頼みにシンポジウムをうったが、
同じ時間帯の糸井重里・表三郎に観客を奪われた。
講演が終了した浅田彰と中沢新一は、京大新聞の会
場に現れ、饗宴となった。
 この年のテーマは「万世一京極彩色 騒がぬ民に
盛りなし」に見られるよう、学園祭の享楽化の目が
噴出した年で、「恋人リサーチ」「レンタルボーイ」
の企画が多数出現した。個人情報の管理上問題あり
とされたが、実際にコンピュータによる恋人リサー
チが禁止されるのは、後年である。
 1984年はさらに内容が深まった。経済学部同
好会は、高橋悠治−如月小春−浅田彰によるピアノ
パフォーマンスを法経一番で、ピアノを搬入して開
催。高橋と浅田の連弾が試みられた。西部進と伊東
光春の講演会もあった。硬い企画としては、桑原武
夫と弥永昌吉の東西大物学者の対談があり、やわら
かい企画としては、予備校講師の牧野剛と森毅の対
談があった。牧野は、観客から続々と差しえれられ
る缶ビールに飲みながら、酔っ払っていた。酒がだ
めな森はタバコをふかしながら、一刀斎ぶりを発揮
していた。

 

祝NF6 2005/11/23(水) 04:37:24
1985年は、まだまだ、ニューアカデミズムブームが
続き、経済学部同好会は、フランスからポスト構造
主義思想の「フェリックス・ガタリ」氏を呼び、浅
田彰、宇野邦一と対談。英語・フランス語・日本語
を縦横無尽に使いこなして、対談を編集する浅田彰
の疾走に観客は酔いしれた。講演会の後、大阪釜ヶ
崎に取材するために移動した。それは写真集にもな
っている。
 しかし、工学部建築学科(T中間実)の主催する
映画「意思の勝利」(レニ・リーフェンシュタール)
が、反対する有志によりピケにより中止された。
理由は「この映画はナチスの強力なプロパガンダ映
画であって、上映の際には反ファシズムの学習会と
セットでないと認められない。パンフレットでの紹
介がナチス礼賛であって、まずは白紙とするのが手
順だ」といい、主催者側は「パンフレットのヒトラ
ーの演説の紹介は、映画に字幕が無いので、親切の
つもりで挿入した」と反論したが、結局、中止に追
い込まれた。同企画は、反対派との討論を踏まえ、
1986年6月7日に大阪大学石橋キャンパスに場
所を移して「超えようとして ファシズム」という
講演+上映会で復活した。講演者は池田浩士氏。

 1986年は、今につながる企画が開催されてい
る。これをみると、11月祭の問題意識の鋭さが
わかる。高月紘氏による「ごみから見た私たちの
生活 第3世界を考える」。東北大学元学長の西澤
潤一氏による「独創技術に求められるもの」、チェ
ルノブイリ直後を反映した広瀬隆の「原子力とは何
か」、魚住けいと辻元清美による「石垣島の青サン
ゴ 新空港反対」があった。経済学部同好会では
渡辺守章をまねいて「舞台の上のジュネ」。ジュネ
講演では、突然、会場の舞台の明かりが消え、赤へ
ルを被ったメンバーが乱入したが、何のことはない、
それもプログラムの一つで、世界を切り裂く演出だ
った。同時期には楽友会館でマイケル・ライアン
の「支配と抵抗−アウトノミアと脱構築戦略」が、
アプレ企画で催され、浅田彰の紹介ののち、上野
千鶴子、宇野邦一、粉川哲夫らが混じってディス
カッションを行った。訳は伊藤公雄だった。

 1987年は、天皇Xデーが叫ばれ、他方、バ
ブル経済に差し掛かるころである。
 奥崎健三を映画にした「ゆきゆきて神軍」が上
映され、監督の原一男が講演。また「愛と幻想のフ
ァシズム」を刊行したばかりの村上龍と浅田彰の
対談。新古典派総合派経済学を批判する、岩井
克人(東大)と塩沢由典の対談が行われた。 

 この後、工学部の学生らによる環境問題への
取り組みから、発砲プラスチックの容器を使用
しない運動などが取り組まれるのは90年代で
ある。めぼしい講演会としては、阪神タイガー
スの川勝選手、まだ逮捕前のオウム真理教の
麻原彰晃の講演会が行われ、いづれも会場を
いっぱいにする盛り上がりをしめした。

祝NF 2005/11/23(水) 04:46:58
安保からニューアカまで、まさに赤ヘルが古きよき京大文化の王道を行っているわけです。
だから、近年、この掲示板でも多々見られるような図式、つまり「左翼=中核派全学連(=外様)=アフォ(=センスなし)」=「京大学生運動」という括りは、赤ヘルノンセクトの末裔=吉田寮、学友会、同好会などなどには酷。
自由で桁外れな大学という、京大イメージは、ノーベル賞学者の輩出等と並んで、学生運動における京大(赤ヘル)的作風が作り出してきたと言える。

うんこ 2005/11/23(水) 05:41:02
へぇー。
面白かった。ところで、

>アイドル研究会は、バーニングプロとファンクラブによる、名前だけの団体で、新人の大学祭のプロモーションのため、このコンサートのためだけに作られていた団体で、実績がある大学公認団体ではなかった。その反省にたって、その後のステージ企画の運営がされるようになった。
その割には反省が生かされていませんねぇ。
GETTIとイ中とその仲間たちもバーニングと同じ穴の狢でしょうに。

はあ 2005/11/23(水) 11:06:57
>祝NF
革命的マル共連フォーラムのdat落ちしたログを持っているんだ。

>文学部学友会=全学自治会同学会=吉田寮
これは乱暴かと。金太郎飴ですか。

>自由で桁外れな大学
さらに、はしょりすぎ。 明治期、初代総長の木下広次が、「本学は学生の操行監督上において詳細なる規定を設けず..朋友の切磋は舎監をして直接これに当たらしむ」と宣言して、学生を大人君子として扱い、大学は自重自敬、自主独立に期待して学生に細大注入主義をとらない方針で大学運営をおこなった。これが自由の「畑」ならば、自由を耕した農民が京大生を「学生はん」としてあつかった京都の人と、それに応えて活動し、裏切らなかった学生たち(黒沢明の映画「わが青春に悔いなし」を見よ。なお、当局は放っておくと規制したがる)。そうこうして、自由放任、やってみなはれの精神が、風土として戦前に形成された。その風土を戦後は、府学連やブント、寮が継承してきた、というのが妥当な流れだろう。赤ヘルだけで作り出したに見做すのは無理があり、赤ヘルも自由のひとつの栄養素に過ぎなかった。

2005/11/28(月) 02:17:31
ヤバイ順
J>S=A>E>P 

卒業生A 2005/11/28(月) 12:05:24
昔も今もよくわからないのですが、「赤ヘル」ってどういうひとたちですか?
「共産主義者同盟」(ブント)に共感しているということはどうやらそのようですが、ブントのどこかの派にみなさん加入しておられるんでしょうか?
「中核派」の場合、たぶん加入してないとあの白ヘルはかぶれないんでしょうが。
赤ヘルをかぶる「資格」ってなにかあるんでしょうか?

2005/11/28(月) 15:03:21
広島カープのファンなら、誰でも赤へルをかぶる資格がある。

卒業生Z 2005/11/28(月) 21:05:25
■ヘルメットの始まり

ヘルメットを被るスタイルは、1960年の三井三池炭鉱の争議で始まり、労働運動が先行。坑道の切り羽で命を賭けて働く、労働者の誇りのスタイルだった。炭の粉塵を避けるためにタオルを口に巻いた。このスタイルを真似したのが、三派全学連。

学生運動のヘルメット姿の嚆矢は、1967年10月8日の佐藤訪米反対の羽田闘争。その闘いで、京大生山崎博昭が、1960年以来の学生運動の犠牲者となった。後に「激動の7ヶ月」と言われる、羽田訪米阻止−エンタープライズ寄港阻止−王子病院反対−第二次羽田で、三派全学連はヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルを定着させる。

背景には、1965年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾 などが登場していたということに関連していた。機動隊によるデモ隊のサンドイッチ規制が、デモ隊に無力感を与えていた。この規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂に学生運動の急進派はヘルメット・タオル覆面・ゲバ棒という闘争スタイルを編み出した。

当初は、ヘルメットに色分けはなく、デモ隊はカラフルな彩を見せていたが、次第に、中核派は「白」、革マル派は「白にZ(全学連)」、ブントは「赤」、青解は「青」、フロントは「緑」などと色分けが進んだ。異色は、MLの赤に白のモヒカン。京大薬学部の榎美佐子の中ピ連(中絶に反対しピルを解放する連合)は「ピンクに♀マーク」。

党派に属さないものは、関東では「黒」(法政、東大、神奈川大、早稲田)、「銀」(日大文理)、「鉄褐色」(中央大4階)など、関西では「赤」(同志社、京大)、「黒」(阪大)のようになった。京大では、全学闘争委員会連合(全闘連)が「赤」、農学部闘争委員会が「緑」、吉田寮・熊野寮は「黒」、創価学会が「白」、民青が「黄色」だった。早稲田大の宮崎学が率いる民青の「黄色ヘルメット」部隊は、「暁隊」と呼ばれ、あまりのゲバの強さに全共闘から恐れられた。のち、黄色ヘル部隊は新日和見路線で粛清された。

ヘルメットの色分けは下記を参照。
http://marukyo.cosm.co.jp/MET/met-3D/SEKIGUN.JPG

■海を渡るヘルメット

では実際にはヘルメットは機動隊に有効かというと、まったく弱い。役に立たないと言ってもよい。警棒一発殴られれば、すぐに壊れた。だから戦う姿勢の表示でしかない。でもヘルメット姿は海外に輸出された。韓国の労働運動では、日本とまったく同じのヘルメット姿が1980年代に登場した。

アメリカでは、むしろヘルメットを被るのは右翼労働運動の勢力で、ツバの付いた黄色いヘルメットを被ってデモ行進をして公民権運動に対抗した。

そういえば、ニクソンと争っていたころのジョン・レノンは、1972年8月マディソン・スクエア・ガーデンのコンサートで、アンコール曲「ギブ・ピース・ア・チャンス」を歌う際、東大全共闘から送られた赤ヘルメット(加藤打倒と書いてある・東大総長)を被り、オノ・ヨーコは白い「叛」と書いたヘルメットを被って、合唱をしていた。

■ ヘルメットはどこにある

もはや、20世紀の遺物となったヘルメットであるが、卒業後も押入れにヘルメットを隠し、時々、磨いているという話を、ブログで読むことがある。これもそのひとつ。

http://ch.kitaguni.tv/u/7801/%b2%c1%c3%cd%b4%d1/%ce%c0%c0%b8%b3%e8/0000195825.html

京大と同志社では他の大学よりも長くヘルメット姿が続いた。そのためノンセクトは「赤ヘル」とも呼ばれた。きっと、それは比叡山のあばれる僧侶の袈裟・鎖帷子の恰好の伝統があったので、違和感なく京都の風景になっていたからしれない。比叡山は焼き討ちされたが、赤ヘルは被るものがいなくなった。いまはデモは「パレード」というらしく、堂々とヘルメットを被れるのは三里塚の集会か、寮祭の鴨川レースぐらいと言われる。あまり長く被ると蒸れて、若禿げになりやすいので髪の薄い人は注意が必要だ。

卒業生Z 2005/11/28(月) 21:14:42
色分け

http://marukyo.cosm.co.jp/MET/index.html

羽田闘争
http://zenkyoto68.tripod.com/haneda01.htm

エンプラ闘争
http://zenkyoto68.tripod.com/watanabekiyosi00.htm

写真をクリックすると画像が見られます。

卒業生B 2005/11/29(火) 16:33:19
むかし、教養部のA号館地下に「民学同」(「民主主義学生同盟」)がいた。学生共闘とか全C実など名乗っていた。上部団体は「日本の声」、ソ連のいうこと何でも正しい、という感じ。
3つくらいにわかれていて、京大にいたのはそのうち「学生共闘派」というひとたち。最初に分裂したとき、一方が他方をなぜか「ウジャラ派」と呼称し、その「ウジャラ」がまた分裂して「ウ派」と「ジャラ派」になったそうな。機関紙に大真面目に「ウジャラとは何か」という論文まで載っていたそうだ。
全京都集会を教養部構内でやるというから、どんなんだろと思ったら、A地下からぞろぞろ出てきた連中と京女大の女性がちょっと加わって、A号館まえで「全京都集会」やってて笑ってしまった。
ちなみにずっと教養部でだけ活動していて、自治会はひとつとして握っていたことはない。一説には72年の崩壊前のC自の常任委員に何人か送り込むことには成功していたらしい。でも常任委員会の多数派ではなかった。
3回生になって学部にいくと活動停止して勉強にはげむ?か、頼みもしないのに教養部にいのこって教養部の後輩の「指導」にもっぱらあたる。
主張は「諸潮流の統一」。C代大を「赤ヘル」と民青と自分たちの3派であつまれば成立できるとして、一般学生を忘れた主張を繰り返していた。(実際、大阪市大では民学同3派が野合すれば、学生大会が成立したそうな。)
もともと64年の部分核実験停止条約の際、民青から分裂して出た連中なので、なにかと類似品をつくっていた。平和委員会に対し、「学生平和委員会」とか。原水爆禁止運動では、まよわず「原水禁」のほうに。77年からの原水爆禁止世界大会の一時的な統一開催の際も「禁と協が合意したのが今回の統一の意義」とのたまい、それまで分裂に嫌気がさして外にあった青年団や婦人団体も加わった意義を過小評価して顰蹙をかっていた。
赤ヘルのお情けで教養部内で生きていたなさけない連中。赤ヘルのC共闘のビラに「民学同諸君、もう一歩左へ!」などとおよびかけをいただいていた。

卒業生B 2005/11/29(火) 16:58:45
なぜか京大の赤ヘルが仙台の東北大学への「革命の輸出」に力を入れていた時期があって、京都から仙台にいって戦術指導をしていた。東北大卒のひとに聞くと「えらい迷惑してた」そうな。
東北大の赤ヘル?の稚拙な戦術で、東北大当局などがたかをくくっていたら、京大から指導に来て、一夜にして戦術があくどく高等化し、当局が困ってしまったとのこと。
京大と東北大をなぜか連帯させたがっていて、京大で「もうこのへんで(スト)やめよか」とまだ赤ヘルシンパ初心者といった感じの教養部の学生がいったとき、L学友会の筋金入り赤へルのKさん(当時、それなりに業界では有名人だった。学部生になってもC共闘の指導をしていた。それでこのひとはよくいまは学者やっているもうひとりのKさんとつるんでいた。こっちのKさんもLのひとで有名人。このあいだ哲学書の新書版をものしていた。)・・が「そんなこといったら、トンペイのやつらがぽしゃるやんけ」と言った。「トンペイ、はぁ?・・」
東北大のことだとわかるまですこし時間がいりましたよ。

卒業生Z 2005/11/29(火) 22:20:26
>A号館地下に「民学同」
彼らへ向けた歌を昔聞いたことがあります。
「ミンミンミン、ミンガクドウ、お池の周りにお花が咲いたよ、ミンミンミン、ミンガクドウ」
むしゃくしゃした時は、気晴らしにA地下にバルサンを投げ入れて、走って逃げるのが流行りました。ダニですね。
民青が教養部にでてきたときは、L地下から赤ヘルが登場して、退治していました。僕らは「ミンセイ、ホイホイ」と呼んでいました。

>哲学書の新書版
それってヴィトゲンシュタイン....

卒業生Z 2005/11/29(火) 22:49:00
「いま、学生自治会の値打ちを考える――全学連再建40周年をふまえて」元全学連委員長・田熊和貴氏大いに語る!
http://web01.cpi-edia.co.jp/zengakuren/news/news_38.html

もちろん、民青系の学生運動もあったわけで、昨年の講演会から。民青はヘルメット学生を「ニセ左翼暴力集団」、もしくは「自治破壊暴力集団」と呼んでいた。それに対し、悪びれずに「暴力学生ってのは、あたいのことかえ」と、「論よりゲバ棒、花より団交」と開き直っていた。どちらが面白いかは明白。

2005/11/29(火) 22:52:07
http://web01.cpi-media.co.jp/zengakuren/news/news_38.html

卒業生B 2005/11/30(水) 08:57:31
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/sengogakuseiundo.htm

戦後の各潮流の動きがいろいろとよくわかる。
どうしても東京中心の内容だが。

2005/11/30(水) 09:46:06
暴力学生のかたに、革命@命なんですか、ときくと、「革命? そんなの月曜日に、生ゴミと一緒にほかしてしもたわ」

卒業生B 2005/11/30(水) 10:44:04
むかし、よく教養部の語学の授業(中央館でやることが多い)に赤ヘルが来て「クラス討論」を強要した。
赤ヘル「○○で討論しろ」
クラスの自治委員「そういう話ですが、どうしますか?」
クラス全員「(シーン)」
語学の先生は成り行きを見つつ待機。
自治委員「じゃぁ、決とります。賛成のひと」
クラス(誰も手をあげない)
自治委員「反対のひと」
クラス(半分くらい、手があがる)
赤ヘル絶叫「おまえらな、いまな沖縄人民はなぁ・・」
クラス(反対であげた手がそろそろと下へ)
(勇気ある)自治委員(赤ヘルにむかって)「まぁそういうことですので、こんどまた。」「先生、授業おねがいします。」

後年、白ヘルから「学園主義」と言われる赤ヘルは一応、クラスの了解のもとに討論させようとし、ビラまきも授業開始前とかで「礼儀」をわきまえていた。

当時、赤ヘルの主催する「C代大」に当日だけ姿を現す白ヘル(中核)は、授業中でも堂々とはいってきてビラを配布していた。先生も学生もふだんみかける赤ヘルとはちがう白ヘルにどう対処したものか分からず、授業はそのまま続けられ、あたかも白ヘルの兄ちゃんは空気のような感じで(存在してないかのような取り扱いを先生と学生から受けつつ)、ビラをまきつづけていた。やはり、白は怖かった。赤はたまに絶叫するものの、まだ日本語が通じた、という感じ。

2005/11/30(水) 12:57:42
うそ臭い、というかデタラメだな
中央館ってどこだよw
C代大は中核派が主導

2005/11/30(水) 13:15:17
70年代後半、京大教養部構内の教室は
A号館、中央館、D号館、E号館で構成されていた。
中央館はA号館に取り囲まれた中庭状のところに2階建であった古い建物、尚賢館と古さを競っていた。
そのころ年度末教養部恒例・試験つぶし狙いのストのための「C代大」は赤ヘルが主催。中核派は「C代大」当日登場の間借り状態で、76年1月下旬の「C代大」では赤ヘル議案が「可決」、中核議案(無期限バリスト)は「可決保留」。

2005/11/30(水) 13:22:19
ここでいう「赤ヘル」はC戦線を指し、いわゆる赤ヘル一般にあてはまらないのではないか。

2005/11/30(水) 13:45:07
C共闘のつもりでした。

C戦線とどっちが先、どっちがあと?

学生時代 2005/11/30(水) 15:06:23
  つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日
  夢多かりしあの頃の 想い出をたどれば
  懐かしい友の顔が 一人一人うかぶ
  重いカバンを抱えて 通ったあの道
  秋の日の図書館の ノートとインクの匂い
  枯葉の散る窓辺 学生時代

  ↓
  ビラの散らばるキャンパス アジを捧げた日
  夢多かりしあの頃の 想い出をたどれば
  懐かしいメットの顔が 一人一人うかぶ
  重いビラを抱えて 通ったあの道
  秋の日の自治会の ガリ版のインクの匂い
  立て看のゲバ文字 学生時代

2005/11/30(水) 16:12:25
http://www.geocities.jp/noetherischer_ring/2005diary/April2005/05april1.htm

そういえば私の学生時代は酷かった。新入生の我々は、教養部事務窓口で履修要綱と各科目せいぜい2〜3行程度の講義概要が一緒になった、自動車教習所のテキストよりも薄い冊子と紙っぺら一枚の時間割表を貰っただけで(実はそれで十分なのだが)、ガイダンスらしいものは何も無い。来週早々から講義が始まるし一体どうすればいいのだろうと、田舎から出てきて大学の右も左もわからずに戸惑っているところに、民青系自治会が「理学部自治会自主ガイダンス」と称して2日ばかり丁寧なガイダンスをやってくれた。これには大学側は一切タッチしていない。自治会が自主的にガイダンスをやるから、大学側は手を出さないでくれという話になっていたのかも知れないし、あるいは、大学側が何もしないから見るに見かねた自治会が自主ガイダンスを企画したのかもしれない。

ガイダンス自体は有り難かったのだが、ガイダンスをやってくれてたお兄さんやお姉さん達は民青の活動家で、「わたし達『一般学生』は」という言い方をしていた。対立セクトである赤ヘル系学生を「ニセ左翼暴力集団」と呼んで、いかにも彼らは通りがかりの学生を無差別に襲うテロリスト犯罪組織だから気をつけようというような事を言う。西部講堂に近寄ったら危ないよ。吉田寮なんかは暴力集団達のアジトだよ。わたし達『一般学生』が力を合わせて、大学から彼らのような犯罪者集団を駆逐しよう、等等。これにはすっかり騙された。

しかし田舎者の私にも、これは要するに左翼系学生運動のセクト間の対立なのであって、「わたし達『一般学生』」とは民青系セクトの運動家のことにほかならず、「ニセ左翼暴力集団」の暴力行為の対象は実は彼らに限定されている事を理解するのに、そう時間はかからなかった。「私たちは民青です。由緒正しい本物の左翼活動家です。今、理学部の自治会を仕切っています。赤ヘル系セクトとは考え方が合わずに対立関係にあります。勿論私達の考えの方が正しいと思っていますけどね。今後ともよろしく」と玄関から礼儀正しく入ってくるならともかく、「わたし達『一般学生』は」と言って、自らの政治的姿勢についてまだ全く白紙状態だった我々の居間にいつの間にか入り込んで来る人間ってのも、かなわんなと思ったものである。

呼称 2005/11/30(水) 17:04:19
トロツキスト暴力集団
→京大のヘルメットが「トロツキスト」かという疑問。
 「トロツキスト」とは第4インターがそれであり、ぎりぎり範囲をひろげても、まず中核、革マルどまりか。

赤ヘル暴力集団
→形態(そのまんまや)を現していて、また「トロツキスト」との決めつけよりはましな呼称で普及。

ニセ左翼暴力集団
→東京方面からの推奨の呼び名、でもあまり使われず「赤ヘル暴力集団」が汎用された。

2005/11/30(水) 21:10:30
結構、個人のHPに京大の話が載っているようだ。それだけこの大学の学生運動が
全構成員を巻き込み(民青も当局も)、大きな波となって印象に残る内容だったのだろう。
今は昔、1977年の話だ。

http://www.cosmos.ne.jp/~miyagawa/text19a.html

 本日6月18日が何の日か知っているだろうか。そう、京都大学の創立記念日である。18年前の今日、京都大学評議会は「反戦・自由の砦」の創立を記念すべきこの佳き日に、経済学部助手竹本信弘に対する「連絡不能」を理由とする「分限免職処分」の決定を賛成多数で可決した。早朝から時計台一階に座込んでいた我々は、既定方針通り、京都大学総長岡本道雄の要請に基づき時計台を包囲していた京都府警機動隊によって、一人ずつ「ゴボウ抜き」にされ、「平和的」に排除された。ジェラルミンの盾の列の間を両腕を抱えられて連行されながら、おめでたくも私、おそらく私たち、はまだ、採決による勝利を5分5分の可能性で読んでいた。採決の決定的瞬間に会議場の二階におらず、怒りをもって突入すべきときに機動隊の包囲の外側で時計台を茫然と遠まきにすると言う無残な結果をもたらしたこの早すぎる「武装解除」が、当局と「白樺」派との密約の内容であったことを知ったのはもっと後のことだ。私たちに楽観的な読みをさせたガセネタももちろん「白樺」の仕業だろう。
 2年後、全学学生自治会同学会新政権はこの日の「敗北」に至るすべての事実を明らかにし、全面的に自己批判する文書を発表した。その頃完全に「ひよって」いた私は、その文書を強烈な違和感とともに手にしたのを憶えている。一握りの陰謀集団によって「踊らされていた」に過ぎない愚かな者たちとして自分たちが描かれることも不愉快だったが、あらゆる運動につきものの裏切りや陰謀にも関わらず、その運動にただ一人でも「大衆」が関与したかぎり、運動の生命は防衛されなければならないと思った。その年の4月に入学したばかりの私は、「組織者」であるよりは、より大きく「大衆」の一人であった。

もともと「赤軍派になる」つもりで大学に入ってきた私は、4月28日の時計台前全学集会に向けての熱狂の中に、否応なく、いや、すき好んで巻き込まれた。この集会の参加者は公称1、200、実際にも800はいただろう。東一条から百万遍まで敢行された「無届け」の「フランス・デモ」(道幅いっぱいに手をつないで広がるやつ)には警察も手だしができなかった。
 6月中旬評議会決定の見込がうわさされる中で、6・14教養部代議員大会、スト権確立、評議会情勢に応じてストライキ突入という方針の下で、連日の「怒涛のような」「クラス入り」が開始された。朝7時、「尚賢館」結集、簡単なうち合せの後教養部正門前ビラまき。毎日新しい内容のビラを1、000部用意した。8時50分の一時限め開始とともに、あらかじめの分担に基づいてクラス入り。語学などのクラス授業に介入して、討論を組織し最終的には代議員3人を選出させる。「尚賢館」の壁には、大きな模造紙に各クラスの討論組織状況の一覧が張り出されていた。すでに4月17日の三里塚集会で「デビュー」をはたし、ものずきな一回生として「将来を嘱望」されていた私は、とりわけ政治意識が低いとされている工学部に所属していたせいもあって、20クラス以上もある一回生工学部クラスを中心に討論の組織を任されることになった。
 教養部の半数が工学部である以上、代議員大会の成否は、工学部の組織化にかかっていることは誰もが認識していた。でも、民青すら手だし出来ない膨大なノンポリ層。はじめは全く無理とも思えたが、やがてここに一人あそこに一人と、話を聞いてくれる人が現れ始め、「尚賢館」の壁の一覧表にも代議員選出を示す赤旗マークがつきはじめた。
 人間は変化することが出来る。働きかければ、必ず反応を引出すことが出来る。逆に、働きかけなければ、絶対に、反応を引出すことは出来ない。「しつこすぎると嫌われる」と言うのは、こと政治運動に関するかぎり、何もしないことの言い訳に過ぎないこともわかった。そして、より危険なことだが、人を否応ない変化に誘い込む、「権力の味」も知った。

2005/11/30(水) 21:11:09
6月14日、すでに選出代議員数は定足数を超えていたが、当日本当に出席してくれるかどうかは、前夜の徹底的な電話オルグにも関わらず、自信がもてなかった。議会制民主主義に大した敬意をもっていない我々は、当然のように出席数の水増し工作の準備をしていた。法経一番教室の入口でいわば二重帳簿を操作していた部隊と会場内との伝令をしていた私は、出席者の実数が「本当に」定足数を超えてしまったときの、文字どおりの「うれしい悲鳴」を今でも忘れることが出来ない。
 代議員大会などと言うものは、成立さえさせてしまえば、必ず議案は通る、それどころか、最も「左の」路線に傾くものだ、といわれてはいた。しかし、会場の議論の行方は我々「組織者」の予想をはるかに超えた。無理やり頼み込んで来てもらった筈の「一般学生」の代議員たちが、次々に壇上に頼まれもせずに登り、あまつさえ「無期限スト」などの「極左路線」をぶちあげたりしている。
 6月17日、評議会決定の前夜、同じく法経一番教室で開催された総長団交には教養ぶを中心に、500名以上が結集した。すれっからしの活動家の追及にはのらりくらりと返答をかわす技を身につけていた総長岡本も、かわるがわるマイクをつかんで立ち上がる「ノンポリ」教養部生の発言には明らかに動揺している。私たちは、少なくとも私は、勝利を確信していた。

 運動と言うものは、勝つにせよ負けるにせよ、始めるよりも、終わることの方が難しい。「白樺」をめぐる混乱のなかで、もちろん当時の私にはその辺のことはよくわかっていなかったが、暫定的に出された「報復戦貫徹」の方針。処分賛成派の評議員の研究室に夜間、乱暴ロウゼキをはたらいたり、農学部グラウンドで早朝ゴルフの練習に現れた岡本にささやかな「テロ」を加えたりといった、「不毛な」闘いに対して活動家が一人減り、また一人減りする中で、あまりなにも考えていなかった私は、このささやかな「破壊活動」を結構楽しんでいたような気もする。だが、運動の高揚期には、えらそうに現れて「断固たる」決意を述べたりしながら、退潮期の「尻ぬぐい」が始まるとさっさと消えて行った人達への恨みはまだ消えていないかもしれない。
 同学会OBたちは、次世代指導部形成のため教養部の主だった活動家を集めて「研究会」などを始めた。無内容な「単ゲバ」と思われたのだろう、私は誘われなかった。連日の「不毛な」「破壊活動」に疲れ切っていた私は、その「サロン・マルクス主義」を糾弾するつもりで、一人乗込んでみじめにも泣き出してしまったと言う、情けない記憶を持っている。そのとき、レーニンだかなんだかの読書会を主催していたのが、現在阪大か神戸大か忘れたが教授におさまっているI氏だ!

 何だか、下品な暴露記事めいてきたからそろそろやめるけど、もう18年も前になるこんなささやかな記憶にいまだに私が「こだわって」いるのは、別にそれが「青春の記念碑」だか「墓碑銘」だかであるからではなく、また誰に恨みがあるわけでも、悔いが残っているからでもなく、あれは疑いもなく「勝利」の経験だったからだ。空間を支配する「権力」、「権力」の支配する空間。ストライキ中の教養部を満たしていた空気の「におい」、あれはミニチュアではあるが、「権力」そのものの「におい」だった。
 やがて、そのミニチュア権力が包囲され、本来の権力に奪い返され「秩序」が取り戻される。その「潮目」の変化、「風向き」の変化に気がついたときは大抵、もう遅いのだ。別に自分の個人的経験を過大評価するわけではないが、その「潮目の変化」は、より大きな文脈のなかで、戦後の大きな歴史的転回と連動していた。おりしもその年の5月、三里塚では鉄塔が撤去され、一人の活動家が殺された。翌年の管制塔占拠はすばらしい勝利だったが、その後の官公労に対する徹底的なパージは、国鉄分割民営化のさきがけを成すものだったろう。同じ年の8月には、狭山裁判の上告棄却決定。思えば77年はとんでもない年だったのだが、忙しい闘争スケジュールをこなすだけの私たちには、おそらく、その後の「戦後政治の総決算」は全然予想できていなかった。

 18年たった。今になってこんな昔話を蒸返すのは、別に自慢したいからでも懐かしいからでもない。やっとこの1サイクルが円環を閉じようとしているように思われるからだ。1995年1月17日以降、私はやっとのことで、新たな参照基準を手に入れることが出来たかもしれない。
 ということは、ひょっとしたらこれからまた18年間、神戸の記憶だけをたよりに茫然と生きて行くことになるのかもしれないのだ。生涯にたった2つの記憶しかないとは、何と愚鈍な人生! 「6・18」18周年記念によせて。ながらくご静聴ありがとうございました。

2005/12/01(木) 05:59:59
今の自治会を語ってくれよ。

↑↑ 2005/12/02(金) 10:25:59
>2年後、全学学生自治会同学会新政権はこの日の「敗北」に至るすべての事実を明らかにし、全面的に自己批判する文書を発表した。その頃完全に「ひよって」いた私は、その文書を・・

この文書見たいのですが。それと「白樺」って何ですか?

2005/12/05(月) 20:09:10
 文書はむりやろ。白樺は、附属図書館で竹本信弘氏逮捕(1982.8)関連の記事を探せば、ちょとは触れているかもね。来年、その高瀬泰司氏がなくなって、20年になるのか。前後して小松辰男氏もなくなった。この二人がいたから、西部の1970年代がエキサイティングなものになった、と。
http://www.hi-ho.ne.jp/gotta/yuzo/taichan.htm
http://www.masaho.com/0511.html
http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/komatsu.htm
http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/gekidan.htm
あるいは、「夢は荒野を 小松辰男追悼集」

参考 2005/12/06(火) 14:56:52
http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/readers/0511/r0511_10.html

http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm

http://www.nn.iij4u.or.jp/~logos/index.html

http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/

2005/12/06(火) 20:53:08
あら、日本共産党の「さざなみ通信」
共産党をたたく「宮地健一」
元4トロの村岡到の「ロゴスの会」
日本共産党クズレの「加藤哲郎」
共産趣味者の「れんだいこ」

バランスを欠くので、

中核派のブログ「イスクラ」を追加しとこう。
http://blog.livedoor.jp/uchamikun/
また、元になったブログ「あかはたともみ でいりー赤旗」も
http://members.at.infoseek.co.jp/akahatatomomi/index1.html

この二つのブログ、気持ち悪さは「ばん」で間違って注文した「中丼 大盛り」に劣るとも勝らないぐらい。

2005/12/13(火) 10:41:09
もっと何かショッキングな事件ないの?

2005/12/18(日) 09:46:52
北部祭典ってあったけどあれはどこの主催?
どんな中身だったか知ってる人いる?

2007/10/25(木) 01:10:43
理学部と農学部の自治会じゃないの?

京大OB 2008/03/11(火) 20:31:54
京大の民学同は全国委員会派の多数派だった。民青の大衆路線に不満があるが、「トロツキスト」派についていけない学生が結集していた。

昔々のことなんだけど 2008/03/20(木) 00:32:04
>あ 2005/11/17(木) 01:08:27
>なんで経済学部だけ同好会とかいうしょぼい名前なんですか

大東亜戦争のときにこうなったのを、そのままほったらかしにしているらしい。ちなみに、同学会という聞きなれない名前も、その名残なのだよね。

ちなみに 2008/03/20(木) 12:55:15
全学自治会ってまだ存在してるの?
いまだに見たことも会ったこともないんだけど

coco 2008/03/20(木) 13:32:08
同学会は吉田寮に電話があるよ
同学会に入ってる人はどこかの自治会から出てるみたいだよ
ちなみに今はT自は復活してまつ

ちなみに 2008/03/20(木) 14:00:19
あるんだ!?
でも電話があるだけ??
あんまり表だった活動はしてないってことか・・・

山本勝彦 2008/05/06(火) 01:29:16
410 革命的名無しさん [sage] Date:2008/05/06(火) 01:01:23 ID: Be:
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/motoyama.html
。。。著者は2006年まで京大経済学部の教授だった。
 この経歴をみれば、経済学業界の人々ならすぐわかるように、彼は日本共産党の御用学者である。なぜなら、彼の世代はそれが京大経済学部の教官になる条件だったからだ。
 かつては、学術論文を1本も書いたことのない民青の元全国委員長が助教授に採用され、同学会(なぜかブント系の学生自治会)に糾弾されたこともある。
 なぜ京大が共産党(講座派)なのかといえば、東大が労農派(かつての社会主義協会)だったからだ。それ以外の理由はない。東大が「マルクス経済学」なら京大は「マルクス主義経済学」と称し、マルクスを批判する宇野弘蔵を攻撃していた。なぜなら、マルクスが間違ったことをいうはずがないからだ。
 さすがに最近は京大も、マル経の供給が絶えたので、普通の経済学者を採用するようになったが、著者の世代はほとんど共産党員(あるいはそのシンパ)である。。。

>coco 2008/05/13(火) 02:45:23
T自復活したんだ?
総人もなんか自治会らしきものがあるんだよな?

coco 2008/05/16(金) 15:43:55
総人は完全に潰れた希ガス
最近復活していたら知らんが

2008/05/17(土) 00:22:18
自治会の準備会のようなものである「総人有志」とかいうのを昔やっていた奴が最近大学に戻ったらしい。

けんちゃん 2009/01/30(金) 05:50:22
赤ヘルと暴走族。やたらに陰惨な落書きをし、下品に騒ぎ、おもしろがって人を傷つける、人権侵害の尖兵。まだ赤ヘルと戦いたいけど、消滅しちゃったね。まあ、せいぜいなつかしがってください。
http://blogs.yahoo.co.jp/anti_war1021

2009/01/30(金) 11:46:40
あちこち荒らしまわってる爺さんですね。乙w

共産趣味者 2009/06/11(木) 03:10:21
あげ

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