吉田寮でお化け屋敷
吉くん
2005/05/22(日) 01:08:43
NFの企画で、「吉田寮でお化け屋敷」っていう企画を考えてるんですが、通りますか?吉田寮生のかた、どうか教えて下さい。いまは寮生じゃないけど
2005/05/25(水) 22:26:37
バンカラの旧制三高の自由寮の寮祭では、部屋にション便くさい布団をつるして「人生」とか、ごみやゴキブリを山盛りにして展示していたとか。それを見に来た旧制京都女子一中(現・鴨折高校)の娘らは、きゃっきゃと喜んでいたとある。また、体を真っ黒にペイントした、「じんじろげ踊り(蓑を着て南洋の土人のカッコをする)」などが「紅萌ゆる」(岩波)にある。他方、当時の吉田寮は、そういったバンカラと一線を画していたとものの本にあるが、現在では、学生が高校生化しているので、そういった企画はアイディアとしてはOKかもしれかもしれない。でも、人が一杯住んでいるからスペースはあるのかな? 寮食堂付近なら、OKだけど、院生や留学生の夫婦やその子供も住んでいるので、生活の場所を荒らさないような、配慮が必要だと思うね。さまざまな事情で住んでいる人が多いから。↑
2005/05/25(水) 23:10:43
このスレッド自体もミスコンスレを沈めるために行われた一連の荒らしのなかで立てられたものだと思うのだが。ミスコンスレ29から順にその上のスレッドの書き込み時間帯を見れば同一の者がやっていることがわかる。
4
2005/05/27(金) 03:32:54
夜の吉田寮でお化け屋敷をしたら?何も準備しなくても俺にとっては
十分お化け屋敷になるかと
↑
2005/05/27(金) 22:29:32
お化け屋敷は、場所の雰囲気だけでは、成り立たない。八坂神社のお化け屋敷は、人が脅かすから、怖いのである。単にうらびれた木造作りと、怪しげな住人だけではお化け屋敷の怖さの必要十分条件に足りない。子供の頃、比叡山山頂の人が演じるお化け屋敷がどれだけ怖かったものか。関西人以外には、あの怖さは、体験でけへんドス、な。まあ、あの木造のゴミに火をつければ、エキスポランドの火炙りのお化け屋敷程度に、恐怖は昂ずるが、それは一回しかでけへん話やな、お兄さん。
↑
2005/05/27(金) 22:31:20
通報シマスタ↑↑
2005/05/27(金) 23:27:44
いや、比叡山のはマジでなんかおるっちゅう噂が…お化け屋敷 いいね
2005/05/28(土) 20:26:58
死んだカラスを食堂の入り口に逆さに吊るすだけでも怖そう。下記のルートなら、居室に迷惑をかけない。舎友室から叫ぶとか、北寮階段の上からコンニャクをぶら下げる。事務室、食堂を迷路にして、仕掛けが可能。中庭には、すでに落とし穴(生ごみや死骸)があるし。
伝説の比叡山は閉鎖されたらしいから、京都の新たなお化け屋敷の伝説・メッカを。NFで、秋季寮祭を期待。
↑(迷い道1) けもの道
┏━━━ ━━━━━━━━━━━
┃食堂 → ↓ 北寮
┗━ ━ ┓┏━ ━━━━━━━━
↑ ┃┃ ↓ 中庭
START ┃┃ ↓ 迷い道2
玄関 ┗━━ ━━━━━━
┏━ ↓ 中寮
┗━┓ ┏━━━━━━━━━
End ← 事務室
┗━━━━━━━━━
↑
2005/05/31(火) 23:42:58
ばか、早く火をつけて、燃やしたら、関西一のお化け屋敷や。↑×2
2005/05/31(火) 23:51:25
消毒と、認識したらマシかも。死人が出ないように工夫してほいいが。
↑
2005/05/31(火) 23:52:58
再び、通報シマスタ萌え
2005/06/26(日) 17:07:00
火ぃつけると5分で燃え尽きるらしいよ。まじうんこ建築。てか、うんこ臭い。OB
2005/07/18(月) 15:24:14
long long time a go 、千葉県の田舎で盛大な祭りがあった。この大学からも祭りの最盛期に、ときには100名以上の京大生が、そして吉田寮からも3,40人の寮生が、あるとき御輿を担ぎに、あるときは御輿のまわりをちょろちょろと歩いて、祭りを一緒に盛り上げた。たまに、千葉県からおっさんがやってきて、当時は禁制ものだった、どぶろくを造って吉田寮生に振舞っていたっけ。祭りには、盛り上がるときもあれば、宴の後、片付けをするときだってある。今回の判決は、それこそ当時の警備課長佐々敦行をして、ダメダメ空港と揶揄されたお化け屋敷「成田空港」からゾンビのように襲い掛かってきた類である。こんなことを許してはならない。
1978年3月26日の盛大な巡行には間にあわなかった「遅れてきた世代」だけど、管制塔占拠の映画「大義の春」に感動した元吉田寮生として、次の文章を届けたい。バックミュージックには、ブロンディの「ハートオブグラス」か、高橋悠治の「ゴルトベルク変奏曲」、パンタの「世界革命戦争宣言」が、三里塚にふさわしい。
祭りに、どこのセクト関係なんて、野暮なことは気にするのはやめようぜ。
* * *
『管制塔占拠-成田開港阻止闘争への不当な損害賠償請求攻撃をゆるさない
管制塔元被告団への大衆的カンパを! 』
管制塔元被告団へ1億円カンパを!
郵便振替
口座名
管制塔被告連帯基金
00130-3-445762
政府と成田国際空港会社は、一九七八年三月二十六日の管制塔占拠闘争の元被告たちに、損害賠償請求の強制執行の攻撃を行ってきた。すでに今年四月以降十人に対し、給与の差し押さえの強制執行の手続きを取り、定収がない六人に対しても支払いの督促を行っている。
政府は「成田空港シンポジウム」で自らの非を認め、それ以後一切賠償問題に触れることがないまま、時効の直前に突然強制執行という手段に訴えてきたものである。こうしたやり方を絶対に許すことはできない。この攻撃は政府が一度非を認めたことを反故にし、暫定滑走路を北側に延伸しようとすることと決して無縁ではない。われわれは三里塚芝山空港反対同盟とともに断固として闘い続けるであろう。
だが管制塔元被告団にかけられた損害賠償四千三百八十四万円は法定利息を含め総額一億三百万円にもなっている。これを放っておけば毎年自動的に二百万円余の利息が加算されていく。その上、四月から毎月給与の四分の一が差し押さえされている。
苦渋の選択として、管制塔元被告団は今年年末をメドに一億三百万円の一括払いを決めた。なお、カンパは10月末集約とする。管制塔元被告団に全国の仲間に声明(別掲)を発表し、この運動をともに担うことを求めている。
われわれは管制塔元被告団の決定を支持し、ともに闘いともに苦闘を担うことを確認した。
全国の同志、友人の皆さん。この管制塔元被告団にかけられた損害賠償強制執行をはね返すために多大のカンパをお願いします。
期限がせまっており、まだ管制塔元被告団の口座が開かれておりませんので、当面、新時代社口座 00150―8―157442に管制塔被告へのカンパと記入して振り込みください。管制塔元被告団の口座が開かれましたら、すぐにご報告致します。
カンパをよろしくお願いします。
二〇〇五年七月十一日
新時代社
(その2へ続く)
OB
2005/07/18(月) 15:25:01
(その2)声 明
元(成田空港)管制塔被告団一同
私たち元管制塔被告団は、政府及び成田国際空港会社(元新東京国際空港公団)の損害賠償の時効差し止めを意図した賠償強制執行の着手に対して満身の怒りをもって抗議する。
二〇〇五年(今年)七月七日、一九七八年三月二十六日管制塔占拠にともなう器物の破損にかかる損害賠償請求訴訟判決の時効の日に当たる。最高裁判決から十年もたつ今年三月、法務局は突然元被告たちに対し、給与の差し押さえを始めとする賠償の強制執行に乗り出した。賠償請求に理があるならば当然被告団はそれに応じたろうし、政府も素早く賠償執行に取り掛かったはずである。
なぜ政府は賠償請求の執行にすぐに取り掛からなかったのか?
答えは明白である。全く請求に理がなかったからであり、いわゆる管制塔占拠後に国と空港反対同盟の間で展開された「成田空港問題シンポジュウム」においても、非は歴代政府にこそあることを当時の運輸省課長さえも認めていたからである。
二〇〇五年(今年)七月五日の新聞各紙に取り上げられた「元活動家の給与差し押さえ」の記事は、政府と成田国際空港会社による新たな「成田空港反対運動」に対する攻撃であると私たちは理解している。
手狭であり、不便であり、使用料がどこよりも高く、ソウルの仁川空港を始めとするアジア各国の空港に利用者を奪われている「成田空港」は競争力を上げるべく、滑走路の延長・新たな滑走路の取り付けを迫られている。
私たちへの損害賠償強制執行着手は反対闘争に対する圧力であり、今後ますます反対同盟やそれを支援する人々に対して強まるだろう政府の攻勢であると捉える。そうであるならば私たちは少々老いてはいるが、再再度政府に対する闘いを宣言せざるをえない。あらゆる方法で反対運動に対する弾圧・圧迫を打ち砕くために立ち上がるだろう。
元管制塔被告は最高十年(未決通算加えると十二年)、短期の者でも(未決通算を加えて)六年の刑期をまっとうして来た。皆が社会に出て新たに社会と家族と職場の関係を築いてきた。この過程の労苦は計り知れないものがあった。一人の仲間が自死で尊い命を奪われてさえいる。
今回の政府の賠償強制執行の着手は、私たちが出獄後築いてきた社会・家族・職場関係を引き裂くことになった。一九七八年の不当な空港強行開港宣言を管制塔占拠によって粉砕してから二十七年、「成田空港問題シンポジュウム」で政府が反省の弁をたれてから十三年、私たちの闘志はあの時以上に大きくなっている。不当な「成田空港」の建設に反対するばかりか今度は家族と職を守ることもふくめて私たちは闘いに立ち上がる。
今から政府はますます強固になる空港反対闘争に遭遇することになるだろうし、政府・新国際空港会社は意図とは逆に大きな困難に直面することになるだろう。
正義は管制塔占拠の瞬間も現在も私たちにある。
私たちは絶対に負けない。
二〇〇五年七月九日
OB
2005/07/18(月) 20:16:13
三里塚空港、別名「新東京国際空港」または「なりた」と呼ばれる、この空港で何が起こったかは、もはや現代史の一こまになっている。MANGA世代には、『ぼくの村の話』(モーニングKC/尾瀬 あきら 著)が、理解を早めるだろう。村が国家権力によって強権的に空港にされていく様子が村人、学生たちを通して描かれている。何気なく利用する空港は、かつてこのように作られたことを知ると、また違った視点で飛行機からの田んぼを見ることができる。
そして、何の得にもならんのに成田空港の管制塔に突入し、8年間も獄中で暮らし、あとは1億円の賠償金を請求されている偉大な「大馬鹿もの」たちを支援するのが上記のカンパである。新時代社でなく、「管制塔被告連帯基金 00130-3-445762 」の口座は開いてました。ATMで振り込める。
「あほらしいから、ヤーメタでなく、あほらしいけど、ヤッテミルンダという資質は、きわめて人間的な、青少年期の優秀な資質に属する」(森毅)。
先は、いつも見えない。評論家は後付けするだけだ。「行くんだ、どこへ」「どこかわからないが、ゆくんだ」(忍者武芸帳/白土三平)。小才ぶった利口者であるよりは、愚直な馬鹿者のほうが最終的に世界を変えうる。
「誰かがやらなければならなかった、だからわたしがやった」とは、管制塔戦士の声。あそこにいたのは、僕らかもしれないと思慕する、同時代の<共時性>、今に思う<通時性>、これが歴史<に>学ぶことである。歴史<を>学んでもしょうがないだろう。
いまさら、、ねえ
2005/08/24(水) 01:05:14
↑しょーもなふっく
2005/09/23(金) 00:30:22
↑↑ほんとうにしょうもないやつ↑↑↑
2005/09/26(月) 19:55:15
このひと、サービス精神があってぼくは好きですけど今年の
2005/09/29(木) 00:28:33
NFの日程を教えてください。↑
2005/09/29(木) 06:02:51
その質問鋭い。11月祭HPには、日程が掲載されていない。大学の公式HPには、下記の公文書がある。つまり、前夜祭(應応団)は22日。フィナーレは、26日だね。仮装行列は?
http://www.kyoto-u.ac.jp/notice/05_notice/ippan/051126.htm
11月祭の開催に伴う授業休止について(2005年7月25日付)
掲示第6号 学生一般
本年度の11月祭が、下記のとおり開催されることに伴い、11月24日(木曜日)、25日(金曜日)の二日間、授業を休止する。
11月22日(火曜日) 前夜祭
11月23日(水曜日)〜26日(土曜日) 11月祭
11月27日(日曜日) 清掃日
平成17年7月25日 担当部署 学生部学生課 課外教養担当
↑
2005/09/29(木) 13:14:50
仮装行列はもう何年も前からなくなってるぞ↑×2
2005/09/29(木) 14:06:46
ネット上でわかるのは2001年頃まで。京都を歩く会には、たのしそうな仮装行列の絵が。
http://www.kurasc.kyoto-u.ac.jp/radar-group/members/kazu-oh/kyoho/calender.html
↑↑↑の方、
2005/09/30(金) 16:23:15
ありがとうございます。いまは寮生じゃないけど
2005/10/02(日) 08:03:08
「三高同窓会HP」で、「ヂンヂロゲ踊り」がみられる。以下引用。(アホらしいといえば、これほどアホらしい習俗はない。け、ゲロヂンヂ島? これをなつかしむOBも、青春のバカものだ。現在では、チビ黒サンボの二の舞になる)。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/zinziroge.html
「ヂンヂロゲ踊り」は寮では特別の意味を持つ歌だったらしい。
三高の寄宿舎「自由寮」では毎年新入生歓迎コンパで<秘祭>「ヂンヂロゲ踊り」を執り行った。<秘祭>は、中寮の東端の室長が『この部屋の住人だった三高生とりーべ(編者注:恋人)の悲恋の死を悼み、その霊を慰めるため南洋のゲロヂンヂ島に伝わる結婚式を行う』と述べると、十数人の室員は全身に懐炉灰や煤・墨汁を塗り、男役は腰簑、女役は応援旗の腰巻姿で舞台に駆け上り、新郎新婦が酋長の立ち会いで三々九度の杯事を演じ、次いでご両人を中心に「ヂンヂロゲ踊りの歌」を合唱しながら喜びの大乱舞で終わるという、女人禁制の悲劇を弔うものであった。
ジンジロゲヤジンジロゲ
ドーレードンガラカッタ
ホーレツラッパノツエツ
マージョリジョーヤ
シッカリカマタリワイワイワイ
シノミヤパリヤ
ジョーリナンナジーヤ
ウップルメットメップルカ
ラバブルジルカーナ
大正の中期から始まったが、年に一度だけ、門外不出で寮生以外は見ることのない<秘祭>であった。前説も次第に潤色が進み、死霊による怪談部分を詳細に創作、途中で消灯、蝋燭一本で声色混じりで語り、やがてはそれも消し、暗黒の中で語り終わると同時に、全身黒塗りの室員達が奇声を挙げて飛び出すという演出で、新入生は度肝を抜かれた。
ヂンヂロゲ踊りは起源としては大正5年頃紀念祭の仮装行列で裸にサロン代わりの毛布を腰に巻き身体を絵の具で黒く塗って『ヒラミルパニア』を歌って盆踊りのまねをした(周東英雄(大正7一部丙))のが見られる。『ヂンヂロゲ』が踊りのテーマになったのは大正10年頃で、紀念祭の仮装行列で文科の生徒が裸のまま真っ黒に塗って『印度人尻振りの歌』を歌いながら踊ったという記録(筒井嘉隆、大正13理甲←作家・筒井康隆の父である)が残されている。当時紀念祭は一般市民も観覧する評判の催しだっただけに市中に流出し、東京漫才や吉本興業の高座などでもインドの歌とし演じられた。
大正12年から昭和初期にかけては寮でも新入生歓迎コンパの余興として『ヂンヂロゲ』が群舞された。寮でのヂンヂロゲ踊りは次第に定着して「伝統行事」化していったが、大正8年に作られた『月見草』の物語がヂンヂロゲ踊り前説として合体、潤色され上記の「秘祭」となったのである。戦後昭和23年秋の第80回紀念祭は三高最期の紀念祭となったが、新徳館での前夜祭で有志による「秘祭」の開放公演が行われた。
追加発言



