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【幡随院】基本書・予備校本について語れ4【長兵衛】


>> 2007/02/11(日) 23:39:01
前スレ
http://www.kyoto-u.com/lounge/tokeidai/html/200612/06120007.html

幡随院長兵衛さんとまだまだ続きを語り合いましょう。

ははは 2007/02/12(月) 00:16:24
すごいね、スレタイにまで名前が入るなんてまさに新星のごとく現れたね

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 01:27:44
社会主義者氏へ。
前にも述べた通り、わたくしは自身のことを保守的と自己規定したこともなければ、貴方以外の他者からも保守的であると認識されたことは今まで一度もなく、したがつてわたくしは自己自身を保守的であるとは思へないといふことを再度申し上げたい。

むしろ左翼的ないしはリベラルとの認識をうけたことはあるし、わたくし自身としても左翼的とは思はないが、リベラルな傾向にあるとの自己認識に落ち着いてゐる。

尤もリベラルといつても人によつてその理解がまちまちなので何を以つてリベラルとするのかは困難を極めるかも知れない。
とはいふものの、わたくしは何かにつけて人の考へをイデオロギイ上の左右に裁断する思考そのものに不信感を抱いてゐるし、さういふ振る舞ひは事の本質から目を逸らす態度でしかない愚かなことであらうとすら思はれるのである。
もつと眼光紙背に徹して、事象そのものへ、事物そのものへ肉薄する態度で心構へるべきなのでは。

何でもかでもイデオロギイに還元してしまふ態度は、その実何も言つてゐないに等しい。といふのも、そのイデオロギイ的裁断の言説自身のイデオロギイを問ふならば、忽ちにして言説そのものが完全に相対化されてしまひ、遂には何も断じ得ぬ言葉の遊びと化してしまひかねないからである。

相対主義的言説の陥りやすい罠とは、全てを相対化したやうに見えて、実は全てを相対化する当の主体は絶対的な安定の位置に留め置いてゐるといふことに関して徹底的に無自覚にさせてしまふことに見出されると思はれるのである。

わたくしは、これまで様々な書物に目を通してきたが、概していはゆる左翼的あるいはリベラルと目されてゐる(実はさういふ分け方自身が不毛であるのだが)者のテクストの方が圧倒的に読むに値するテクストであるといふことである。誰が見ても一目瞭然の出来不出来の差はイデオロギイ関係なくはつきりわかるものである。

大学の教員にも頭の悪い者が大勢存在し、最も悪質な輩はさして読みもしないのに、平然とイデオロギイ的な裁断を恥ずかしげもなく披露し、失笑を買つてゐる。誰とは言はないが、本学にも実に恥ずべき無知無能の輩といふべき教員が存在する。最近調子に乗つて保守系論壇やら公共の電波において、その悪辣な言説を垂れ流してゐる厚顔無恥かつ屑のごとき本学教員もゐるのは御存知であらう。その者の言説に触れるにつれ、なぜこのやうな輩を本学において置くのか、周囲からもさすがに馬鹿にされてゐるだらうが、さういふ者が残した便所の落書程度の文章に比べれば(比べること自身が馬鹿馬鹿しい限りなのであるが)遥かにましなテクストを残してゐる者が数多存在することは確かであらう。貴方が読みそしてわたくしも愛読してゐる廣松渉は優れた学者で上記の屑教員とは雲泥の差であらうこと必定である。

社会主義者 2007/02/12(月) 11:38:53
他者はともかく私の見地ではあなたを保守的としか判断出来ない。
それからイデオロギーは単なる左右の区別ではない。
私はイデオロギーを行動原理と解釈している。
思想+実践、を意味した概念と考えている。
従ってあなたの言う相対化は単なる思想の区別でしかなく、更にはその思想に基づく実践が全く考慮されていない。
あなたの法解釈批判は結構だが、しかしそれだけでは何ら生産的ではない。
イデオロギーを単なる思想の区別としか理解出来ないのならば、自説を述べると言う実践が出来ないのも仕方ないのだろうか?
私の立場からすればあなたの言動は正に保守的なのである。
保守の典型と言っても良い。
廣松を上げているが、廣松がイデオロギーの権化だと知っての事か?
イデオロギーの軽視と廣松では矛盾しないか?
例えば廣松と山口重克のイデオロギー論争はどう解釈する?
イデオロギーを軽視するあなたが廣松を上げるのは何故?
私の場合、廣松を読むだけでは飽きたらず、廣松哲学の中核である事的世界観を援用して価値論を措定した。
私は自説を展開し、そしてこれを卒論として提出した。
自説を述べると言う実践の有無が私とあなたの決定的な差異になっている。

社会主義者 2007/02/12(月) 12:18:31
少し言い足しておく。
私が廣松を援用したのは偶然であって、価値論の措定をするに当たって廣松哲学が一番使い易かったからに過ぎない。
便利だから使った、ただそれだけなのである。
だから私の措定した価値論から廣松を脱構築する事は恐らく可能だと思う。
しかしそれは措定したものを単に再構成しただけだからもはや研究とは言えない。
教官にも聞かれたが、今後の研究においても廣松を使い続けるかは分からない。
使えるなら使うが、使えないなら使わないと私は答えた。
廣松自身も価値論でとどまり、その後の転化論、剰余価値論、搾取論の研究はなされていない。
そう考えると廣松の有効性は限定的なのかも知れない。
私は現在、交換過程論を研究しているが、廣松は使わずに久留間鮫造を使っている。
あなたが廣松をどう解釈しているのかは知らないが、私は決して廣松を絶対視していない。
その意味では愛読と言うのはピントがずれていると思う。
私の目標は社会主義の措定であり、そしてそれに基づく社会主義革命の実践である。
あなたの様に講釈を垂れるだけと言うのはどうも性に合わないんですよ。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 13:07:45
社会主義者氏へ。
イデオロギイが思想的な立場のみならず貴方のいふ行動原理まで包含するものであつたとしても、結論が変はるものではないと思はれる。
むしろさういふ者の思考こそ、世界に局所的にしか存在しない者が超越論的/超越的な概念の言明を伴いつつ世界を把捉するパラドクスにあまりに鈍感に過ぎる、との思ひをますます強くするばかりである。

実践やらプラクシスやらを強調する者など過去にごまんと存在し、むしろ耳にたこが出来るほどである。目新しいことなど何一つ存在しない。
廣松のテクストを愛読することと、わたくしがイデオロギイなるものを一つの意匠としてしか捉えてゐないこととは何ら矛盾するものではないだらう。わたくしがプラトンを愛読しやうが、わたくしがそのことでプラトニストないしは実念論に立脚しなければならない必要など皆無であることと同義である。

わたくしが岩波書店から出版された廣松渉著作集全16巻を隈なく読んでも、付録につけられた他人の文章から伺はれる革命家としての廣松に付き従ふことはない。むしろ革命家廣松といつても、例へば彼の認識論的主観に関してものされた卒業論文を読めばわかるやうに、先に述べた通り、廣松渉はさすがにわが国を代表する哲学者だけあつて、世界に局所的にしか存在しない者が超越論的/超越的な概念の言明を伴いつつ世界を把捉するパラドクスに関して当初から意識的であつたことが明瞭である。
安易に実践、実践と連呼することとは訳が違ふといふことである。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 13:45:10
社会主義者氏からは保守反動の烙印を押され、別のところでは左翼とのレツテルを張られるし、いかに左右のレツテル貼りが杜撰なものであるかが伺はれやう。

わたくしは箸を持つ手は右手であるが、野球の際は左打ちである。
冗談はさておき、何故にかくも人をイデオロギイ的に二分したがるのであらうか。ネツト上にもさして思想の内容も知りもせずにレツテルを貼りたがる者が多いし、それは大学教員にすら存在する。上に挙げた厚顔無恥の輩である本学の教員の一人などその一例である。

社会主義者 2007/02/12(月) 14:00:59
どうも良く分からないが、あなたは局所から大域への移行をどう解釈しているんですか?
私はそもそも局所から大域などは認めていない。
それは廣松も否定した物的世界像による解釈ではないのか?
その誤りを正す概念が事的世界観ではないのか?
あなたの解釈が良く分からないのは申し訳ないが、私はそもそも局所的な概念を大域的な概念に拡大しようとしているのではない。
同時にそう言う事は私の実践とは全く無縁である。
そもそも局所と言う概念を最初に持ち出す事が理解出来ない。
先在しているのは人間ではなく社会である。
勿論ここで言う社会とは虚構であって、物象化的錯認によって具象化された社会ではない。
言わば大域から局所と言うのが正しい視点である。
そして私の実践とは虚構的社会の解体である。
虚構を具象化するのではない。
正反対である。
虚構は本来存在しないものである。
従って無に帰すのである。
私の実践を一言で言えば、物象化的錯認によって具象化された社会の虚構性を無に帰す事である。
社会の帰無、それが私の実践なのである。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 14:13:06
イデオロギイを一つの意匠としてしか捉へてゐないし、況してやマルクス主義者でもないわたくしが何故廣松渉のテクストに真剣に対するかと言へば、それが知的刺激を供するものであるからに他ならない。世界を根底から思考する視座を供してくれ、それがわたくしをして真に思考を駆動せしめる契機となつてゐるといふこともできるだらう。

わたくしが廣松渉のテクストと遭遇したのは高校生の頃である。「世界の共同主観的存在構造」といふテクストに触れたことを契機として、「相対性理論の哲学」やら「物象化論の構図」、「科学の危機と認識論」、「マルクス主義の地平」やら未完の「存在と意味」など膨大な著作を読むことになつたのである。わたくしが気に入らない現象学に対しても適切な批判が加へられて胸のすく思ひをしたものである。
ノイマンの「量子力学の数学的基礎」やスピノザの「エチカ」、あるいはウイトゲンシユタイン「論理哲学論考」、更にはアンドレイ・ヴエイユのテクストほどには時間をかけなかつたが、それでも現代日本の中では文句なく知的な仕事を成し遂げた者として今も愛読書となつてゐるといふ訳である。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 14:26:01
わたくしが述べてゐるのは、局所的なものを単に大域的なものに拡大するといふものではない。
それを可能ならしめるために潜在的に前提されてゐる超越論的認識のシステムに他ならない。

廣松の卒業論文は、前にも触れた通り、認識論的主観についてのもの。後に「世界の共同主観的存在構造」につながる思考の萌芽が既に見て取れるだらう。
経験的なレヴエルでの話ではなく、経験を可能ならしめる超越論的構造が哲学者廣松渉を捉へて話さなかつた大問題であらうと思はれる。この論文はカント論として元々構想されたものらしいことからも容易に察することができるやうに、カントのいふ「可能性の条件」としての超越論的問題への関心である。
単に事実的・経験的レヴエルで局所から大域へといつてゐるのではない、といふことを付言して措きたい。

社会主義者 2007/02/12(月) 14:26:23
左右の区別とは、あなたに倣えば、相対的なものである。
私はあなたよりも左側に存在し、あなたに対して左翼と言った人間はあなたよりも右側に存在する、ただこれだけの事である。
数直線を想定すれば良い。
左右の区別は絶対的な基点がある訳ではない。
今、数直線を上げたが、原点0を基点として+ならば右翼、−ならば左翼と二分出来るものではない。
原点が存在しない数直線上に単に並んでいるだけに過ぎない。
従って私があなたを保守と判断し、別の人間があなたを左翼と判断したとしても何らおかしい事はない。
それは冒頭で述べた相対関係を表しているだけの事である。
更に言えば他人があなたを左翼と言おうと言わなかろうと、私から見ればあなたは保守である事になる。
ただし一言で保守と言っても軽蔑している訳ではない。
あなたの法解釈批判は然るべきものだから、左とは言えないが左寄りである事は確かだと思う。
あなたに、私の様な社会主義革命を勧めるつもりはないが、然るべき法解釈批判をより具現化すべきではないだろうかと思う。
一言で言えば実践なのであるが、あなたからはそう言う意識が見受けられず、個人的には残念な事だと思う。

社会主義者 2007/02/12(月) 14:50:11
廣松の『存在と意味』を読破したならば当然知っているだろうが、廣松の中核は事的世界観である。
廣松の卒論や共同主観の話も結構だが、それらは全て事的世界観の為の捨て石に過ぎない。
その意味では廣松のマルクス研究は、ドイツ・イデオロギーを除いて、傍流と言えなくもない。
実際、マル経の世界では宇野派内の極小グループとして廣松派が存在しているに過ぎない。
一般的なマル経解釈としては廣松は殆ど認められていない。
これは、あなたが軽視するイデオロギーの問題もあるが、研究上の理由としては価値論にとどまっている事であろう。
私は廣松に限らず、知的欲求を満たす為に本を読んでいる訳ではない。
それは単なる衒学的な悪趣味である。
自らの問題を設定して、それを解決する為に本を読み勉強するのが本来の姿だと思います。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 15:09:59
廣松の当初の問題設定を知らずして事的世界観などわかる訳がないだらうと思はれる。
何故に物的世界観から事的世界観が定礎されねばならなかつたのか、これはわたくしが先述したやうに、哲学者廣松渉が終生抱へてゐた超越論的問題と連関してゐる。そこから20世紀の科学や思想などの動向に刺激されたこともあり、事的世界観の定礎といふ段に至るのである。事的世界観に大きな影響を与へた相対論や量子論の動向にも目配せして(廣松は大森荘蔵などと同じく、現代物理学の原論文にまで隈なく目をやり、その理論の要諦を理解してゐた珍しい哲学者であつただらう)廣松の思考が紡ぎ出されたのである。

アリストテレスも喝破するやうに、知的欲求を満たすことは人間の本質の一つとも言へるのであつて、「単なる衒学的な悪趣味」といはれる所以など聊かもないだらう。わたくしは、兎にも角にもこの世界を理解したいといふ欲求に支へられながら、勉強してゐるのであり、各人が各人の必要に迫られて本を読んでゐることに変はりない。ご自分の読書が本来の姿であり、他人のそれはさうではないなどと口が裂けてもわたくしには言へない。
ともすれば、貴方よりも遥かに大きな問題を自らに課して、それと日々格闘してゐる者も存在するかも知れないと思つて人に対した方が貴方にとつても得であることに思ひを致すべきではなからうか。

社会主義者 2007/02/12(月) 15:57:55
何かから出発して事的世界観に到達した、あるいは物的世界「像」から事的世界観に到達した、これらは誤りだと思う。
少なくとも、物的世界像→事的世界観、は致命的な誤りである。
事的世界観は物的世界像の抽象ではない。
関係一次性と言う概念もあるが、事的世界観は関係主体説の事。
それから個人的には廣松哲学は回帰的な学問だと思う。
言わば粗雑な事的世界観から出発して精密な事的世界観に回帰した様に私には考えられる。
だから事的世界観を理解するのは事的世界観を理解するしかないと言える。
初期廣松の業績を軽視するつもりはないが、『存在と意味』を読むと原帰的な感じがするのである。
廣松が物理学に興味を持っているのは単にもともと物理学志望だったからだと思う。
二浪して物理学から哲学に転向した話は聞いた事はあるでしょう。
しかし、『存在と意味』にも物理学の話が出てくるが、私はそう言う話は単なるたとえ話としてしか解釈していない。
廣松が物理学の哲学の様な事を研究していたとしても、当座それは私の研究とは無縁である。
前にも書いたが、私は研究の為に廣松を使ったに過ぎない。
衒学の為ではない。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 16:06:38
完全に誤解してゐるやうだが、わたくしは廣松が物的世界観から事的世界観へと移行したなどとは申し上げてゐない。
近代的世界もその一つにある物的世界観ではなく、関係の第一次性に定位した事的世界観の定礎を主張してゐるといふことである。その萌芽は既に廣松の卒業論文に見出されやうかと思はれる。

廣松が元々物理学志望であつたことは知つてゐる。東京大学教養学部理科T類を受験したことも知つてゐる。養鶏場の手伝ひとして勉強もできなかつた事情も。更には伝習館高等学校を退学処分になつてゐることも。それらエピソオドに関しては廣松にごく近しひ人から耳にしたことがある。

社会主義者 2007/02/12(月) 16:16:20
誤解かどうかはともかく、物的世界「観」ではなく物的世界「像」ですよ。
物的な世界には世界観などは存在しません。
全て虚像に過ぎない。
何故重要な単語を何度も間違えるのか理解出来ません。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 16:16:45
尚、「相対性理論の哲学」を御覧になればわからうかと思はれるが、廣松は別にメタフアとして使用してゐたのではない。
それはかつて戸坂潤があの時代でやり遂げた「空間論」のやうな優れた仕事であつたやうにわたくしには思はれるのである。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 16:21:16
物的世界観といふ単語を廣松は使用してゐる。
著作集全てに目を通してからさういふ言葉を使つた方が貴方自身のためであることをご忠告申し上げたい。

以前も、マルクスの「ブリユメエル18日」にある文句を捩つて表現したところ、貴方はそれはマルクスによるものではないと述べたが、明確にマルクスの著作に書いてゐるところをわたくしが抜粋したものであり、貴方自身そのことについて何も述べずに等閑してゐるのみである。
自信をお持ちになるのは結構だが、その割には門外漢であるわたくしよりも著作に目を通してゐないのではあるまいか?

社会主義者 2007/02/12(月) 16:35:34
社会を物的世界像ではなく事的世界観によって解釈すると言う観念は、廣松が言わずともごく当たり前の事である。
これ自体は何の変哲もない、言わば常識の再確認である。
私が廣松を使ったのは価値形態論の措定であって、価値関係が重要です、と言う事に対して、価値関係の一次性、商品論の事的世界観による措定、と言い換えただけです。
何も廣松は凄いと賞賛している訳ではありません。
無論、私の研究は単に事的世界観を援用しただけではなく、事的世界観に基づく方法論的社会主義と言う新しい概念を提起した事、更にそれに対して歴史を絡めた歴史論理説を採った事、この二点が私の研究の視軸になっています。
私の研究の話はともかく、廣松に関してはあなたの方が真面目に読んでいるのだと思います。
私は自分の研究が何よりも優先ですから。

社会主義者 2007/02/12(月) 16:50:19
マルクスの『18日』は読んだ事がない。
あなたに指摘されて悲劇喜劇がナポレオンを指していたと認識した。
シュムペーターを読んだ時に悲劇喜劇があって、その時にマルクスに触れていたからシュムペーターによるマルクスへのアイロニーだと考えていた。
廣松にしてもそうだが、私はどうも文献学的な事が好きになれない。
虎の威を借る狐みたいで保守的な感じがするからである。
良く言えば革新的かも知れないし、悪く言えば牽強付会かも知れない。

社会主義者 2007/02/12(月) 17:16:30
私は言わばマルクス学や廣松学には興味がない。
物理学などには興味も関心もない。
山口重克の『類型論の諸問題』によるとマル経には三つの種類があるとされている。
(1)マルクス自身が何を考えていたかを研究する事。MEGAの研究等。
(2)資本主義経済のメカニズムを研究する事。唯物史観は後退。山口重克自身やレギュラシオン等。
(3)社会主義経済を措定する研究。唯物史観は前出。
この内、私の研究は(3)に属する。
(1)の研究は非生産的で保守的だから嫌いであり、(2)の研究は唯物史観を後退させ、社会主義を考慮していないから嫌いである。
文献に当たるのは何の為?
当人と解釈が異なるからと言って、そんなに大騒ぎする事か?
あなたもそうだが概ね保守的な人間程文献を過大評価している様に見受けられる。
詳しい事は知らないが、判例解釈と文献解釈を混同しているのではないだろうか?
判例の解釈をどの様に行うのかは知らないが、思うに書いてある事を書いてあるままに理解するのだろうか?
マル経研究においてもそう言う連中を見掛けるが考慮に値しない。

a 2007/02/12(月) 17:29:19
何このスレ(´・ω・`)

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 18:21:37
社会主義者氏へ。
話を文献学云々といふ方向に逸らさないで頂きたい。
これは別段文献学がだうかういふことではなく、読んでゐないものを自信満々に語る事勿れといふ知的正直の話をしてゐるのである。

マルクスのこと然り、廣松のこと然り。
別に文献学といつたこととは無関係である。
貴方がさもさういふ表現はないものと決め込み、他人を否定するかのごとき言動をするから、明確に書いてゐると申し上げてゐるまでのこと。

わたくしなら自分が読んだものに対しては読んだといふし、読んでゐないものに対しては読んでゐないと明確に答へる。
文献を過大評価するとかさういふことでもない。
また左翼であるとか保守であるかも無関係である。
単に知的正直であるか否かの違ひである。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 18:30:19
ちなみにわたくし自身は文献学といふものにはさして興味がない。尤も学問の方法論として文献学的要素を必要とする分野もあるだらう。わたくしが携はる法学の分野として法制史などはその最たる分野かもしれない。
外交史もさうかも知れない。
しかしながら、さういふ文献学的な仕事は必要であることではあるものの、わたくし自身がやらうと思ふ仕事ではない。
わたくしが興味を持つのは専ら理論的な仕事である。
国際政治でいふならば、外交史やら地域研究ではなく、国際政治の一般理論の構築にこそ興味が向くといふことであらうか。
本学の鈴木基史であるとか、東京大学の石田淳であるとかのゲエム理論を据へた研究に興味がある。

社会主義者 2007/02/12(月) 19:09:16
以前あなたは資本論の副題として国民経済学批判と言う言葉を書いていたが、あれは何故?
何故政治経済学批判を国民経済学批判と間違えた?
資本論を読んでいないから?
『18日』は読んでいないし読むつもりもない。
興味がないから。
あなたが指摘する位だから『18日』に悲劇喜劇の話は恐らくあると思う。
ただ現物がないので確認はしていない。
そしてするつもりもない。
一つ気になるのは廣松の物的世界像。
あなたは物的世界観も書いてあると指摘するが『存在と意味』のどこに書いてある?
それからこちらの方が重要だが、あなたは物的世界像と物的世界観の相違をどう解釈している?
ただ本に書いてあっただけでは話にならない。
私の解釈としては、そもそも事的世界観が中核である以上、物的世界の世界観と言うのは筋が食い違うと思う。
事は物ではないから像としては捉えられない。
一方、物は存在しているから像として捉える事が出来る。
少なくとも私の解釈では物的世界観と言うのはちぐはぐな気がする。
そこで、この物的世界観をあなたに説明して欲しい。
特に物的世界像と物的世界観の相違を聞きたい。
不勉強だから私にはこの相違が分からない。

社会主義者 2007/02/12(月) 19:28:10
ゲーム理論は法学部にも繁殖しているのか。
私は経済学部だから一応はゲーム理論を勉強し単位も取った。
しかし今迄に自分の研究にゲーム理論を使おうと思った事は一度もない。
あなたは読書家だから置塩信雄を読んだ事はありますか?
私はマル経専攻ですが置塩を眺めた事はありますが真剣に読んだ事はありません。
私の読書はその程度です。
自分の研究に活用出来そうな本しか読まないんです。
何故だか知りませんが、興味がない事は全く頭に入らないんです。
廣松で言うと共同主観、四肢構造、唯物史観、物象化論、資本論の哲学、存在と意味、物的世界像、事的世界観、著作集の何巻かは知りませんが、こう言う概念しか知りません。
それから、廣松を読んだのは自分の研究に使う為です。
だからその範囲でしか読んでいないし、範囲外は研究に無縁なので読むつもりはありません。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 19:51:25
社会主義者氏へ。
資本論の副題としてと述べたかだうかの記憶はわたくしにはない。しかし国民経済学批判といふ言葉を使用したことは確かである。
「独仏年誌」にかつてエンゲルスが書いた「国民経済学批判大綱」といふものがあつて、その影響として後に資本論が執筆されたとの理解をわたくしは持つてゐて、事実念頭に置かれているのは当時の国民経済学が主だつたと思はれる。国民経済学批判としてといふのはかかる意味で使用したといふことをまづ確認して措く。グルントリツセもさういふ理解を元に読んだ記憶があるといふことを申し上げて措く。尤も、読んだのは高校入学時なので朧気なのであるが。

物的世界観について。
廣松の著作にいくらでも散見される。別段「存在と意味」のみに限定してゐるわけではない。廣松は確かに後年になるとどちらかといふと物的世界像といふ表現を使用してゐるやうだが、とはいへ物的世界観といふ表現もあちらこちらでしてゐる。「科学の危機と認識論」でも「相対性理論の哲学」でも然り。「唯物史観の原像」ではだうだつたかは記憶してゐないが、廣松最晩年の講演では「物的世界観」と述べてゐた。
廣松死後に東京の星稜会館で催された廣松哲学シンポジウムでも弟子筋の人間もさう使用してゐたといふことをも付言しておきたい。尤も、わたくしはそのころは小学生だつたので直接知る由もなかつた訳だが、記録集を読ませてもらつたことがある。

物的世界像と物的世界観との違ひについて。
これはわたくしにはわからないといふのが正直なところだらう。といふのも廣松自身が適宜使ひわけてゐるともゐないとも断言し難いからである。
ただ物的世界観といふ表現は貴方のいふほどちぐはぐでもないやうに思はれる。物は存在してゐるから像として捉へられ、事はさうではないからといふのはわたくしには納得しかねる。
別に事であつても、像は結べる。勿論、何らかの観念的対象のイメエジといふ意味ではない。さういふ考へはそれこそ廣松哲学の理解に誤りがあるといふべきであらう。廣松が認識の三項図式として槍玉にあげた構図そのものであるからである。むしろウイトゲンシユタインの写像理論として考へれば像といふ言葉を使用したとしても、問題ない。事実、「存在と意味」執筆の頃、廣松は坂井秀寿や藤本隆志とウイトゲンシユタインの論考を取り上げて大学院での授業を行つてゐたし、自身批判的に摂取するに留まるとのニユアンスを残しながらも、写像理論について論じてゐるのである。これは廣松ばかりではなく、かつて戸坂潤も写像理論のごとき考へを念頭におきつつ認識論を展開したのである。単なる模写論とは異なる。
さういふ背景を考へつつテクストに対するべきであらうと思はれるのである。
ただ一般には観念的な対象イメエジと誤解されやすい表現であるために後年は像といふ表現を多用するやうになつたのではないかと想像する。尤もこればかりは邪推かも知れないが。

社会主義者 2007/02/12(月) 19:53:11
廣松の『存在と意味』を引っ張り出してきた。
廣松は物的世界像を実体主義的世界観と相即している。
また実体主義的な世界像とも書いている。
となると、廣松自身が統一して使っていなかったのだろうか?
私は今迄、事的世界観と物的世界像として対峙させて理解してきた。
それらに加えて物象化的錯認。
これは物神性の正体。
存在していないから観であって、存在しているから像ではないのか?
物象化的錯認も滅茶苦茶な言い方をすれば事的世界像と言えるかも知れない。
結局、私は哲学専攻ではないからどうでも良い。
事的世界観と物的世界像が一般認識なので、私としてはそれで十分である。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 20:04:38
法学部にゲエム理論は「繁殖」などしてゐない。
単にわたくしが興味を持つてゐるまでのこと。
勿論、先に触れた鈴木基史が国際政治の数理的分析としてゲエム理論を使用してはゐるが、それだけのことである。

置塩信雄については盛んに耳にするが、残念ながらまともに読んだことはない。森嶋通夫の「マルクスの経済学」といふ著作において置塩信雄のことが触れられてゐたと記憶してゐる。確かベクトルと行列を使用して、利潤率が正である条件は剰余価値率が正であることであるといふ「マルクスの基本定理」に関するところで登場したやうな記憶がある。

2007/02/12(月) 20:10:14
ケコーンしるw

社会主義者 2007/02/12(月) 20:13:31
事を物として見る事は物象化的錯認に他ならない。
事であっても物と解釈出来るなどと言い出したら事的世界観の崩壊である。
正確に言えば、事を物と解釈する事は出来るが、それは錯認なのである。
事は存在していない。
しかしまるで存在しているかの様に錯認してしまう。
これが物象化的錯認である。
今、私達は怪しげな議論をこのスレに書いているが、このスレは存在していない。
存在しているのは私達のPCだけである。
しかしまるでこのスレが存在している様に思えてしまう。
それが物象化的錯認。
事的世界観と物的世界像とでは存在と非存在を峻別していると思う。
だから『存在と意味』なのではないだろうか?
物的世界観と言うと座りが悪いと言うか違和感を非常に感じる。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 20:21:22
また誤解してゐるやうだが、ここで使用してゐる写像といふのはさういふ意味ではない。何か対象が実在してゐるかのやうに当該対象をイメエジすることではない。一方と他方とか恒常的かつ規則的な対応関係にあることを指す。

廣松が述べる物象化的錯認(これもかつては物象化的錯視といふ表現を使用してゐた)とは、概ね三つの意味に大別されるといふが、わたくしが記憶してゐるところでは、本来人と人との関係が物と物との関係として映現する、あるいは物自体の持つ性質ないし属性であるかのやうに映現するといつた意味で使用されてゐる。本来実在しないものが実在するかのやうにといふのはちと意味が異なる。さういふ言ひ方だと、真実在といふものを暗に想定してゐるやうに捉へられるからである。それは形而上学への逆戻りでしかないだらう。

社会主義者 2007/02/12(月) 20:35:28
物的世界像によれば、私とあなたでこのスレを作っていると解釈される。
主体は私とあなたになる。
しかしスレは存在しない。
存在している様に見えるし目にも見える(物象化的錯認)。
しかし私達が見ているのはPCだけである。
私はあなたが存在している様に思える。
あなたも私が存在している様に思える。
しかしどこに?
存在しているのはPCだけである。

事的世界観によれば、スレと言う関係によって私達は結ばれている。
スレは存在しない。
しかし存在しない関係によって私とあなたが結びついた。
関係による結節点として私とあなたは結ばれた。
そしてこの関係が私達の存在を束縛している。

卑近な例を上げてみた。
事的世界観は色々な事に使えると思う。
私は価値形態論に使った。
これは私の予測だが、事的世界観をルソーの『社会契約論』に使ったら面白いと思う。
事的世界観の関係主体と社会における社会契約と言う関係には通じる所が大いにあると思う。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 20:42:36
さういふテエマなら、社会契約論を直接の対象にしてゐないものの、既に山本耕一との共著で「唯物史観と国家論」といふ著作を江湖に出してゐたやうに思はれる。

あと物象化的錯認についての例はわたくしからすればちと不適切な例であらうと思はれるが、長くなりすぎるので書かないでおく。

社会主義者 2007/02/12(月) 21:06:31
私とあなたとでは、疎外論から物象化論へ、の解釈が異なっている。
あなたの解釈だと疎外と言う状態を物象として捉えただけに過ぎない。
一方、私の解釈は疎外の原因、つまり人間関係を物象と捉えている。
予め断るが、疎外論から物象化論へ、の解釈は現在も確定されていない。
従って成否を問えない。
話を戻す。
あなたの解釈では疎外と言う状態を単に換言しているだけで関係主体が導出されていない。
かつ人間を物象化の対象にしている。
何が言いたいのかと言えば、事的世界観になっていないと言う事が言いたいのである。
一方、私の解釈では疎外の原因である人間関係を物象化させる事によって、その人間関係が各人間を束縛していると言う事的世界観の構図が出来上がる。
物象化するのは人間ではなく関係ではないか?
人間は物である以上、物象化と言うのはおかしくないか?
事である関係を物象化するのではないか?
それとも私の解釈の様に物象化的錯認と事的世界観を絡めるのは誤りか?
先にも書いたが、私は事的世界観が廣松の中核だと考えており、物象化的錯認はそれに付随する概念だと考えている。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 21:10:57
申し上げておくが、わたくしの表現は廣松自身が物象化的錯認について触れて説明してゐるところである。
一体、わたくしの文章のどこをだう読めば疎外論的な理解の仕方といふことになるのだらうか。
理解に苦しむ。
失礼を承知で正直に申し上げるが、貴方は廣松渉のテクストを丹念に読んでゐないのではあるまいか。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 21:18:49
そもそもここでは疎外論から物象化論へといふ一連の問題系に関して一言も触れられてゐない。
にもかかはらず、疎外論から物象化論への解釈が異なるなどと仰る。この時点で両者は噛み合つてゐないといふべきであらうが、この問題に触れるならば、1845年辺りの動向を具に見てゐかないと判断できないだらう。尤もわたくしはマルクスの研究者でも何でもない唯の学部生に過ぎず、専らマルクスや廣松のテクストも他の膨大なテクストの一つとして読んだに過ぎない(勿論愛読書の一つではあるが)。
本格的にこの問題について論じるのなら、認識論的切断の問題にまで拘泥する必要があらうかと思はれる。
されば、バシユラアルやらアルチユセエルにまで思考の射程を延ばす必要に迫られるが、ここではさういふ事柄をテエマとしてゐる訳でもあるまい。

社会主義者 2007/02/12(月) 21:18:58
疎外論から物象化論へ、と言う話をご存知か?
あと一つ言えば、私はマル経専攻なのでそちらに偏向していると言う事。
物象化論の話と疎外論の話は私の中では繋がっている。
言える事は、私はあなたよりも廣松とマルクスを相対化していると言う事。
もし、疎外論から物象化論へ、を知らないならば話は終わる。

社会主義者 2007/02/12(月) 21:25:00
強いて言えば、物象化論を使って疎外論をどの様に再構成するかと言う事だろうか?
疎外論から物象化論へ、の連続性あるいは非連続性も一つの観点。
ちなみに私も、お世話になっているある助教授も連続説を採っている。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 21:28:53
疎外論から物象化論へといふテエマは廣松が散々書いていることであり、アルチユセエルもまた同様に認識論的切断として述べてゐることであり、大学生なら誰もが耳にしたことがあるだらう。
わたくしもドイツ・イデオロギイ編纂問題について廣松が書いたテクストを読んだことを記憶してゐる。勿論読んだのは中学時分であつたので、その理解は極めて限定されたものであるだらう。
しかし門外漢ならが当時思つたのは例へば「グルントリツセ」は「ドイツ・イデオロギイ」よりもあと、つまり1845年以後のテクストであるのに、認識論的には疎外論的な構図が復活してゐるかのやうに見受けられるのは何故なのかが気になつて仕方がなかつた。このことに関して廣松から納得し得る回答を引き出せずにゐた。かつての読書感想文でのことなのだが。

社会主義者 2007/02/12(月) 21:29:16
今日はここ迄。
議論の相手をしてくれてありがとうございました。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 21:31:39
記憶間違ひが一点。高校一年の読書感想文だつた。
申し訳ない。

幡随院長兵衛 2007/02/12(月) 21:41:19
ところで全く基本書・予備校本には触れられてゐないのだが、これでは掲示板の趣旨を逸脱してゐると判断されるかも知れない。

当該掲示板の趣旨、内容および目的等から書かれてゐる事柄がどの程度関連性を有するかを総合的に考慮した上で、一見して明らかに関連性が認められず、掲示板における議論の進行を促進する見地からして、これを許容するのは相当でないと認められるやうな内容はでき得る限り慎むべきが肝要と解するのが相当であらう。

>幡随院長兵衛・社会主義者殿 2007/02/12(月) 21:41:29
いやいや、なんというか、お疲れ様でした。

某一 2007/02/12(月) 23:36:39
博識ですね。こんな先輩がいらっしゃるとは。

(まさか学生に活を入れるため教授が降臨したとか・・・それはないか。)

2007/02/13(火) 00:01:07
同感。
てっきり松岡先生が降臨されたのかと思っていました。

賃金奴隷 2007/02/13(火) 02:11:30
奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に
自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。
どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。
そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。

 過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、やむなく奴隷に身を落とした。
彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、奴隷になっても決してその
精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。
その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、あるいは
反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、肥え太った主人を
血祭りにあげた。

 現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、自らが奴隷であることに
気付いてすらいない。それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの
唯一の誇りを見い出しさえしている。
             
           (リロイ・ジョーンズ 1968年、NYハーレムにて)

( °ω °) 2007/02/13(火) 04:57:52
2人ともすごいな。
でもどちらが上?
どちらが正しいの?

某院生 2007/02/13(火) 10:17:32
>幡随院長兵衛
すげえな。ネ申。まいった。

2007/02/13(火) 10:51:34
こういうやりとり見てると、
京大もまだまだ捨てたもんじゃないと思える。

↑↑ 2007/02/13(火) 13:43:47
社会主義者氏は?
悪魔?

SIK 2007/02/13(火) 14:12:19
内田民法W(家族法)は読みやすかった。
しかし何か新しい知識を得られるものではなかった。
独自の見解が書かれているわけでもないし。(婚姻意思を法的婚姻に伴う法的効果を全面的に享受するという意思と解したところぐらいか)

初めて家族法を勉強する人が使うには良いと思うが。

2007/02/13(火) 19:45:18
夜神月とLの対決みたいだ。

ほいみん 2007/02/14(水) 14:50:27
普通に受験しようという人には、予備校本でいいと言う結論に、
学問を楽しみたいという人には、内田でも、という結論に、
なるんでしょう。論争は…

あれ以来 2007/02/14(水) 15:17:20
二人の論争ありませんね。

てか 2007/02/19(月) 00:56:41
http://www.youtube.com/watch?v=3dKnQ63iUSc

社会主義者は全共闘Dじゃねーか?

まさし 2007/02/19(月) 04:30:57
海床ってなんで条文カタカナなの?
視力さがったんだけど しねよ

える 2007/02/19(月) 09:06:42
無粋なことを言うが、幡随院長兵衛が学生なわけないだろ。こんな博識な学生は存在し得ない。おそらく定年退官か何かになって社会的責任から開放されラディカルになった法学の教授が、個人特定されないように珍奇な文体で今まで溜め込んできたうっぷんを書き込んでいると思う。ついでに言えば学生を鼓吹する目的もある。それに幡随院長兵衛は2chの司法板、法学板にもいたよ。語彙があり博識で明晰なので、かなりの老齢で、しかもただの一市民ではないだろう。

2007/02/19(月) 12:13:43
↑狭い世界に住んでる人にはわからないだろうけど、「博識」な学部生でローもちゃんと合格してる人はいます。

社会主義者 2007/02/19(月) 16:00:00
↑×4
私は全共闘Dではありません。

そんな事よりも私の卒論に対するコメントが色々な教官から寄せられてきました。
自分で言うのも変ですが、非常に毀誉褒貶が激しい。
同一の論文にも関わらずコメントがバラバラなのは、何となく精神が不安定になります。
と言うよりも否定的なコメントの方が多いと思う(主観的には)。
否定的コメントを纏めると、
論理が雑で煮詰められていない、
非常にイデオロギッシュで左傾し過ぎ、
新しい概念を提起するのは結構だが他説を否定し過ぎ、
となります。
実際どれも当たっていると我ながら思います。
イデオロギーを喚き散らす事よりも、きちんと本を読んで勉強しなければならないと言う事でしょう。
しかし、敢えて言いますが、イデオロギーを削除する事は意外に容易いのです。
無欲、謙虚と言う事です。
それよりも良く分からないのは、何故近経を否定してはいけないのかと言う事。
近経も方法論的個人主義も合理性も全て間違っていると思う。
合理的な人間など絶対に存在し得ない。
更に言えば倫理性や市民意識も人間には絶対に備わっていない。
仮に人間が合理的と言うならば、市場に任せずに、合理的な計画経済が出来るのではないか?
ともかく近経、方法論的個人主義、合理性、倫理性、市民意識を全て否定して、それに対して方法論的社会主義と言う概念を打ち立てたら非難されまくり。
マル経の世界と言えども保守的な教官だらけです。
まぁとにかく、批判は真摯に受け止めて、研究を深化させるつもりです。
こう考えると、実際に社会主義革命を熾す事は非常に極めて困難かも知れない。
レーニンやトロツキーは本当に素晴らしかったと思わざるを得ない。

幡随院長兵衛さんへ 2007/02/19(月) 16:32:05
幡随院長兵衛さんへ

質問があります。百選の解説を一律には信用しないという考えは酒巻先生の姿勢に感化されてのものでしょうか??

あss 2007/02/19(月) 17:35:21
百選の解説は書いている人が様々なので、怪しげな解説も多い。これ有名

2007/02/19(月) 17:35:26
信用しないって言うより、見解の取捨選択をするっていう当然のことをいってるんじゃないの?

↑↑↑ 2007/02/19(月) 18:20:41
百選の解説が玉石混合なのは教授たちの一致した見解だと思いますよ。

真偽顛倒 2007/02/19(月) 18:59:04
玉石混淆

↑×5の者です 2007/02/19(月) 20:04:46
先生方の一致した見解なのですか、、ありがとうございます。いつも基本書をまず読んでから、該当箇所の百選の判旨と解説を復習がてら読んでいました。時に基本書より百選の解説の方がわかりやすい時もあって重宝していたのですが…。

サッカサマー 2007/02/19(月) 21:01:53
ちなみに、潮見教授は民法の百選でご自分が解説なさっているところについて「あれは君ら向けに書いていない(=実務家や同業者向けに書いたって意味です)」なんてことをおっしゃっていた記憶がありますから(記憶違いならすいません)、百選の解説は使いづらいですよ・・・

幡随院長兵衛 2007/02/19(月) 21:48:25
どなたかが、わたくしのことをかなりの老齢と仰っておられるようですが、わたくしは単なる学部学生に過ぎませんし、某巨大掲示板にも書き込んではおりませんので、この点確認しておきたいと思います。

判例百選の解説についてですが、別に全ての解説が出鱈目であるとか信用ならぬと述べたのではなく、まともなものもあれば、酷いものもあるから注意した方がよいのではないかというごく当たり前のことを確認のつもりで書いたまでのことです。

判例評釈やら解説などをその生業の一つとしている者がやっつけ仕事でしたとしか思えないようなレヴェルのものしか書き残せないとしたら、本来その世界で生きていけないはずであって、早々にお引取り願うほかないはずでしょうが、なぜだか法学の世界ではそれでも通用してしまうのが驚愕ですよね。
一体全体どうなっているのでしょうか。業界の大掃除が必要なのかもと思うことしばしばです。

桃太郎侍 2007/02/19(月) 22:15:11
おじいちゃん学生とか、たまに存在する件について。

える 2007/02/19(月) 22:26:12
(主張)
私は学部学生である。
(批判)
そのような博識、明晰さ、老練さを披露しておきながら、これを単なる学部学生と構成するのはいかにもすわりが悪く、説得力に欠ける。構成として無理があるのではないか。

↑↑↑ 2007/02/19(月) 23:29:08
松岡先生お元気ですか?

a 2007/02/19(月) 23:35:59
おまいらスレ違いも甚だしいぞw

える 2007/02/20(火) 06:44:24
長兵衛とおぼしき人物が現れているスレ
http://p2.chbox.jp/read.php?host=school5.2ch.net&bbs=shihou&key=1165757326&ls=all
このスレの686など。

社会主義者 2007/02/20(火) 23:15:19
話にならない程の保守右翼だ。
確かにこう言う教官もいる。
しかし全てクズだ。
廣松はこう言っている、廣松はこう書いている。
オウムの口真似か?
自説とは言わないが自分の意見一つさえ言えないのか?
本を読む事を実践とさえ言っている。
こんな保守右翼のクズは久し振りに見た。
恐らくサーベイ論文であればまともなものは書けるでしょう。
しかしサーベイは研究ではない。
こんな保守右翼のクズとは議論する価値もない。
一人で衒学の自己満足に耽れば良い。
俺はたとえ誰であろう特別視はしない。
廣松であろうと指導教官であろうと。
廣松が物的世界像と物的世界観を区別していないから何だ?
それは廣松の思考が不十分だからではないのか?
自分自身の理論を作る事が至上命題である。
新しい事をやれば保守右翼のクズは常に非難する。
こいつもそう言うクズに過ぎない。
しかしそう言う連中には自分の意見などはない。
誰かがこう言っている、そう言うクズはこれしか言えない。
全く議論の価値がない。
左右の違いを議論する事は本源的に無理があったと言う事だ。

幡随院長兵衛 2007/02/20(火) 23:49:55
社会主義者氏は、その無知無学を突付かれ相当立腹されているようです。終いにはその異臭漂う汚泥を二階から撒き散らしたような文句を吐かれるに至っては、わたくしも呆れ返るばかりというもの。
これまで相手が知らないだろうと見込んで、口八丁手八丁で誤魔化してきたのかも知れませんが、いざ読んでいる者の前にて披瀝するに及び、その出鱈目さが暴露されてしまったというのが真相でしょう。
自説、自説を連呼することがお好きなようですが、自説と妄想とは異なります。また自説が意見と同義なわけではありません。意見というならわたくしも明確に表明しているではありませんか。ご自分の主張は意見であって他人のそれは意見ではないとどうして断じ得るのでしょうか、全く合点が行きません。

それから社会主義者氏の得意技らしく、よく話をすり替えが見られます。例えば廣松のテクストについて問題にしている時に、明らかな誤読・誤解を指摘されるや否や、自説云々という開き直りをされる。ならば、廣松はかくかくしかじかという立場であるが、自分はこうであると述べなければなりますまい。そうしないで、廣松のテクストはこうだと間違ったことを言ってのけているわけです。これは学問的態度とは言い難い。単なる無知というだけのことです。
わたくしは大学に入学して未だ様々な学問研究を吸収していく身。とても社会主義者氏のように先行研究すらまともに勉強せず、自説自説と吹聴する輩にだけはなりたくありません。知的不誠実な態度は学問する上でも最も忌み嫌われる態度であろうかと思われます。
先行研究に対する的確な理解に基づいてやっと自分なりの研究が研究成果として花開くのではないと思われてなりません。まともな先学も先行研究を弁えないような愚かな振る舞いだけはしていないでしょう。

例えば法学の研究でも、判例や学説の正確な理解あっての研究です。もし判例や学説の理解が無茶苦茶で単に威勢良く夜郎自大な妄言を吐いたとしても、そんなものは「説」の名に値しません。もう一度基礎からお勉強しないさいで済まされてしまうがおちでしょう。

それから社会主義者氏は、テクストを読むということを甘くみておられるのではないかと思われます。読むということは、単にそこに書かれている情報を得るというような半端なことではありません。
再度テクストを面と向かって読み込むという基礎作業からやり直されてはいかがでしょうか。

ともかく、ここは基本書・予備校本について語る場であって、社会主義者氏がわたくしに対し発狂した挙句罵詈雑言を並べ立てる場ではないので、この点ご配慮願いたいところです。

うん。 2007/02/20(火) 23:59:26
長兵衛がいうことは分かる。でも社会主義者がいうことも分かる。

2007/02/21(水) 00:19:34
研究に関しては社会主義者氏の方が上だと思うし、主張も社会主義者氏の方が正しいと思う。
ただ言葉が一人歩きしている気はする。

↑×3 2007/02/21(水) 00:26:53
社会主義者がいう衒学という指摘は正しい。
こいつは単なる読書自慢のオナニー野郎だ。
社会主義者、頑張れ!

2007/02/21(水) 00:37:17
たしかに胸くそ悪い。
貴族的というかそんな感じ。
社会主義者氏は庶民的。

sik 2007/02/21(水) 00:43:00
基本書・予備校本の話はどこへ?

幡随院長兵衛 2007/02/21(水) 00:55:38
なぜだかふってわいたかのように、続々と社会主義者氏の「応援団」が実にタイミングよくご登場されているようですが、この点は敢えて突っ込まないでおきます(同一人物であるないという不毛な争いになるでしょう。とこう申せば、お約束のごとく同一人物ではないとの弁明が書き込まれるということになるのかもしれませんが)。

今や社会主義者氏は、わたくしに憎悪の念を燃え滾らせているようなので、罵倒の嵐が本人から(あるいは他人の装いつつ?)なされるやも知れませんが、無視して本題の基本書・予備校本についての話題に戻してください。

↑↑↑↑↑ 2007/02/21(水) 00:56:17
少なくとも社会主義者は無知無学でもデタラメでもないだろ。
廣松渉の概念を使って卒論書いたって言ってるし。
それに、これ、自分は学があるってこと?
だから社会主義者に衒学だって言われるんだよ。
他の人も衒学ってことだけは同意してるし。
自説とか意見とか言ってるけど、君は何も言ってない。
言ってるのは社会主義者だけ。
正しいかどうかは分からないけど、社会主義者だけが自説や意見を言ってる。
君は何がしたいの?
他の人に学を自慢したいの?
それって衒学じゃないの?
良く分からないけど、意見を言わない君には社会主義者にどうこういう資格はないんじゃないの?

(´-`) 2007/02/21(水) 01:05:02
陰欝なスレ…

a 2007/02/21(水) 01:41:56
お二方,もうやめておきなはれ。
これ以上続けるならば,ただの荒らしですぞ。
スルーですよスルー。

える 2007/02/21(水) 02:05:57
小難しいけれど全体がゾンビのようで生きていない議論というのは、最終的に価値がないのではないか。生きた法律とは判例通説で、これを覚えて一個でも事件を解決することに喜びがあるはず。

2007/02/21(水) 02:31:36
幡随院長兵衛さんを松岡先生と思い込んでる人がいるけど、それって違うと思う。民法第四部の授業で百選について先生は、ゼミで指導教官の下で使う分にはいいけど…っておっしゃてたよ。自分で取捨選択すればいいって言う幡随院長兵衛さんの考え方はこれとは相容れないと思う。

2007/02/21(水) 02:53:32
いくらなんでも先生ではないでしょ?

衝撃の事実 2007/02/21(水) 03:28:46
幡随院長兵衛と社会主義者は同一人物。

2007/02/21(水) 03:39:36
いくらなんでもそれはない。
意見が違いすぎる。
長兵衛は意見言ってないけど。
ところで、長兵衛の名前の由来ってなんなの?
なんでこんな名前なの?
いつのまにか古文から現代文に変わってるし。

桃太郎侍 2007/02/21(水) 04:10:40
太宰治『十五年間』(新潮文庫なら『グッド・バイ』所収)より…


「それじゃあ、幡随院の長兵衛なんかも自由主義者だったわけですかねえ。」

2007/02/21(水) 04:13:00
どこかのスレで指摘されていた。
で、文字を変えた。
つまり、そのていどの奴。
ポリシーがないんじゃない?
文字も衒学の一種だったんじゃない?

↑↑ 2007/02/21(水) 04:15:29
本当?
で、どういう意味?
というか、なんらかの意味があるの?

桃太郎侍 2007/02/21(水) 04:29:59
>ポリシーがない

>衒学



たしかに。文語文やマニアック知識の洪水を一方的にかます嫌らしさ、空虚さは平野啓一郎(今日の文壇で一二を争う痛い奴)と同種のものを感じる。

2007/02/21(水) 04:32:37
一方の社会主義者氏はどうですか?

桃太郎侍 2007/02/21(水) 04:53:59
>一方の社会主義者


あえて平野に結びつけるなら佐藤亜紀みたいかな。佐藤というのは、これまた衒学趣味な作家で、しかも電波の気配もある女性。平野に盗作疑惑をふっかけ訴訟寸前まで行った件は、文学好きには有名。俗にこれを「佐藤と平野の倒錯(盗作)愛」と言う。


まとめると、衒学、電波の気配があって、かつ倒錯愛ということで(笑)。

2007/02/21(水) 04:59:20
社会主義者氏も衒学的なんでしょうか?
この人は衒学的とは思えない。
むしろ思想的な人に思える。
いい意味でも悪い意味でも。

桃太郎侍 2007/02/21(水) 05:06:14
>幡随院の意味
江戸時代の無頼剣客みたいな奴だったかな?WIKIPEDIAに詳しい説明があるみたいなので、興味があれば見てみては?


ちなみに太宰の引用に深い意味はないです。また「十五年間」もあまり面白くないです。『グッド・バイ』のなかでは「眉山」「饗応夫人」「美男子と煙草」あたりが秀逸。「美男子と煙草」は司法浪人にはキツイ内容かもしれないけど…。…スレ違いスマン…。

非京者 2007/02/21(水) 05:20:39
ここは昭和かww
ソ連崩壊するまでのユーロコミュニズムで
欧州知識人が構造主義などを通じて格闘していた問題や論争を、日本の思想家でいまさら後戻りして21世紀に再現すれば、そりゃ叩かれるってww

それに幡随院長兵衛こと塚本さんを学生じゃない、というのは今村仁司や浅田彰を生んだ京大に対して失礼だろww
前者は法科、後者はともに経済学部という違いはあるが

桃太郎侍 2007/02/21(水) 05:28:35
じゃあ、電波と倒錯に絞るということで。


真に「前衛的」であることは電波と紙一重だからなあ…。「社会主義者」を名乗る以上、孤独な戦いを覚悟してはいるのだろうけど。まあ見ようによっては美しい。


そもそも左翼系の人って、なんで倒錯してるというか穏やかでない人が多いんだろう?ラリってるんだろうか?こうした姿勢のせいで無用に誤解されて損してる場合も少なくない気がする。

↑↑ 2007/02/21(水) 05:32:34
おいおい、塚本さんて誰よ?

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